日記(高橋國光さんのnoteを読んだ翌日)
どこまでいっても私は高橋國光の中にある日本語以外に美しいものは見つけられない。
それが私を、パンを焼いているのを待つ間、冷え切った部屋を電気ストーブで温める間、瞼に着せるアイシャドウと唇に咲かせる花の色を考えている間、どこまでも絶望させ、どこまでも安心させる。消費する側で居ても良いという赦しは、現代の神の福音で、天使は大量生産大量消費の掌で潰されたらしい。
怠惰には生きたいけど、惰性では生きたくないと思ってた。愚かで可愛らしい夢。緩慢な日々でゆるやかに毒殺される人達の解毒剤はまだ開発されてないらしい。
ねぇ、知ってる?アナログだから、って理由で殺されるらしいよ、ううん、アナログが逆にエモいんだって。エモいってなんだろね。エモいとダサいの境目がわからなくなってゆく、反転する、聞こえるはずのない嘲笑に耳を塞いで若者達はそれでも渋谷に居る。スクランブル交差点は、エモいとダサいと死者と聖者のパレード。チェックのスカートがひらりと舞い、流行りのバックが衝突事故を起こし、青春の嬌声が信号を点滅させる。
1.7倍速視聴についていけない。人間の質感だけを信じているから。そのスピードでその間でその言葉を発したことに意味があると信じたいから。1.7倍速でも同じですよと言われたら、私は多分、その人の口に彼岸花を詰め込むと思う。血よりも赤い彼岸花を。
諦めることは、一瞬の激痛と永遠の薄めた未練を残す代わりに、醒めることのないぬるま湯を与えてくれる。ぬるま湯に浸りながら、ぼんやりと黒子の数を数えている。白い肌にぽつんぽつんとある黒い点から、昼間に嚥み下した不味い悪口が飛び出し、泡になって消えた。全身にある黒子は、たぶん、全部違う花で出来てるの。私が眠っている間、私は花に覆われているはず。鳥籠のように。
ピアスの代わりに虹色のリトマス試験紙をリボン結びしている女の子。青色に変わってしまった日、インスタを開設したらしい。特別で無いことに気付くことは、一度死ぬことと同じくらい激痛なんだよ。自分が特別だと気付き自分を聖域にすることは、実際に一度死ぬらしい。その周りには沢山の、沢山の、どんな花が咲きましたか?
放課後の理科室、ビーカーにファンタを入れて飲んでいた。オレンジのファンタは、夕焼けをシュワシュワと溶かしていくようで、ビーカーの中に夕暮れを閉じ込められた、そう信じて、ビーカーの中の夕陽が沈まないように、徹夜をした。朝日を浴びたオレンジ色のビーカーは、ただの砂糖水だった。
もっと可愛いことかけるのにな。
ねぇ、私の可愛さに溜息するのも忘れちゃって、窒息死して欲しいな。私が触れなかった部分で、低音火傷して。私の平熱を絶対に君にあげられないのが悔しいな、たぶん微熱だから。嘘。私は平熱、君がのぼせるべきだよ、私の吐く白い息で。私が君を見つめている瞳が、カメラのレンズで屈折することなく、一つの埃も被らず、君の裸眼に光のまま届いた時、心で失明して。ただ、私の残像を追いかけ続けて。私を見つめる時、その先にあるのは私の横顔ではなく、断絶された思想が静かに揺れる湖なんだよ。絡みつく水の冷たさで、君の感覚が私の感覚と同じになるまで麻痺すればいいのに。だからマフラーの糸ほつれを無視しました。
高橋國光さんは、私の人生のミューズ。
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