東西と歴史の谷風〜インド シュリナガル〜
2回目にインドを訪れたのは教員2年目か3年目の1994年か1995年頃だったと思う。その時はデリーから入りカシミールのシュリナガルを訪れ、そこから陸路でラダックに向かった!
カシミールのシュリナガルに入るとハウスボードという湖の上に浮かんだ船上ホテルに滞在することになった。陸を動くにはタクシードライバーとガイドにお金を払って回った。ジュリナガル周辺には多くの遺跡が点在していた。アーリア人の侵入、ガンダーラ王国の設立、アレクサンダー大王の侵入や、マウリヤ朝の設立、そしてアショーカ王による最初のインド統一。正にガンダーラ美術と東西融合のヘレニズムのポイントでもある。私は目が一重で細長く、鼻が高く鷲鼻なので、高校生の頃、鼻がヘレニズムの影響を受けていると世界史の時間にからかわれたりしていた。正にその原点がそこにあった。
シュリナガルの人々は色白で目がブルーやグリーンの人もいて、まるでギリシア彫刻のような顔立ちだった。タクシーとガイドと陸地を回っていると途中で車を止められ立ち往生することになった。聞くとどうやらこの向こうで銃撃戦が始まったらしい。数時間すると通れるようになった。「誰か死んだのか」と聞くと「戦争だからね」と答えが返ってきた。当時内戦の影響もあったインドのカシミールは独立するか、パキスタン側のカシミールに取り込まれることを望んでいた。彼らはイスラム教徒で言葉もムスリムの言葉だった。制圧している側はヒンデイ語を話し、カシミールの人達は何かと奴らヒンドゥーはと呼んだ。「奴らヒンドゥーはカシミールの男を殺し放題で女はレイプし放題、金になるものは何でも奪い放題だ。」と捲し立てた。ところどころで銃を持ったドラビタ系の色の黒い兵士や体が大きく頭にターバンを巻いたシーク教徒の兵士があたりをうろついていた。1990年代インド北部のカシミールではパキスタンの過激派から支援を受けた地下組織によるテロ活動が頻発し、それを制圧しようとするインド軍の攻撃も過剰なまでにエスカレートしていた。
ハウスボードに戻り、次の日は小舟で湖を一周して泳いだりビールを飲んだり昼寝したりしていた。一緒にいたハウスボードのオーナーが私の時計を気に入り、「売ってくれないか」と持ちかけてきた。祖母からもらった女性用のねじ巻き式のセイコーの腕時計だった。とうやら新婚で新妻にプレゼントしたいとのこと。「いくら出せるか」と聞くと「300ドル」という答えが返ってきた。「結構頑張ったな」と心の中で思いつつ「じゃーそれに明日からラダックに旅立つから、そのためにパンをたくさん付けてくれ」と言い商談を成立させた。なんらかの喜ばしいニュースをカシミールに届けたかったのかもしれない。あの時計は今頃どうなってるだろうか?
次の日の朝、担いでいたバックと同じくらいの高さに積み上げたナンのようなパンが用意されていた。それを抱えつつ予約していたバスに乗るためにハウスボードを後にした。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?