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型ができること 〜数学の問題を解いてみて

 数学の問題を解いてみることについての、前回前々回の続きです。
 前回から間が開いており、何故かと言うと、一旦そこで閉じたからだが、またふと思い出した。というか、正しくは、今日久しぶりに思い出したというのではなく、あれからずっと頭の片隅で、いや片隅ではないかもしれない、これについての思考が続いていたようだ。どうも、これは、終わることのない、バックグラウンドでの、コンピュータOSのカーネルの層で動いている処理のような、そんな思考のように思われる。

 今でこそ、私は数学を使う仕事をしているが、学生の時の専攻は文学で、高校の時は数学ができたとは決して言えない。ただ、一応言っておくと、できなかったのだが興味はあった。数学嫌いというわけではなかったのだ。興味はあるのだが、数学的な考え方がうまく掴めないというか、それも、全く掴めないというのではなく、もう少しで掴めそうなのに掴めないといった感じだった。
 いずれにせよ、まあ、数学ができなかったわけだ。
 私が通っていた当時の大学の文学部というのは、ジャンルの幅が広くて、右は小説しか読まず卒論も自作の小説を出すというのがいれば、左は科学哲学などをやるのもいた。その他、歴史学や社会学も含まれていた。私はといえば、哲学や美術研究などを主に選んでいた。当時は、世間で表象文化論が流行っていたので、私もそれに乗っかった所がある。
 で、哲学をやると、基礎的な講義でカントが出て来る。そこで、「超越論」という概念を学ぶ。これは、ざっくりと言ってしまえば、人の精神には予め、カントの言葉では、先験的に、型があり、人はその型に準じてものを考えている、という仕組みのことを言っている。そして、この超越論と並んで出て来るのが「物自体」という概念で、両者は合わせて考える必要がある。物自体は、言い換えると「超越」のことで、決して超越論と混同してはならないのだが、これは、人の認識を文字通り超えたもので、だから、見えない、触れられない。じゃあ人が認識しているのは何かというと、「現象」で、物自体との関係で言うと、物自体の映し絵といった所だ。これを超越論的仮象という。のだと思う。だから、超越論とは現象の仕組みについての概念ということになる。
 だが、仮象とはいっても、字面の印象とは異なって、軽薄で適当なものではなく、かなりかっちりとしたパターンによって規定されている。ここでもまた、コンピュータのOSが思い浮かぶ。
 大体こういう風なことを、学部の哲学の基礎的な講義で学んで、分かったような分からないような感じになるのは、おそらく私だけではないと思うが、その程度であっても、一応、ああそうなんだ、まあそう言われればそうかもね、という位には飲み込むわけだ。
 そして、そうすると、これが前の記事の内容に当て嵌まって来る。
 超越論的であることは、数学的帰納法の理解の際に意味付けること、または見切ることに対応する。他方、超越的であることは、あの高校生の男の子の数学的帰納法の理解の際に躓きを起こさせるもの、または問いの際限のなさに対応する。つまり、例の数学的帰納法の理解に、このカントが使えるのだ。序でに、またざっくりと言うと、前者は有限性にも対応するし、後者は無限性にも対応する。
 だから、高校で数学ができなかった私が、大学でカントを学んで数学が分かるようになるということが起こる。
 だが、以上は理屈である。

 何故、今日、こういうことを書き出したのかというと、文系の人間、というか、私が、どのようにして数学が分かるようになったかの説明として以上のように言えるとして、では、既に中学や高校の時点で数学が分かってしまう、いわゆる理系の子の思考はどうなっているのだろうかという疑問が浮かび上がって来たからだ。
 おそらく、いや絶対に、上に記したような回りくどい過程を経たのではない。況してや、カントを読んでいる子などほとんどいはしまい。
 では、私とは全く異なった思考の形を彼らはしているのだろうか。その可能性はあるだろう。だが、ここでは、彼らも私と同じの超越論的な思考の形を持っているとして進めてみたい。
 できる子と私は、数学を理解する際に同じ形の思考をするが、できる子は最初からそれを発揮できていて、私は或る過程を経てそれに気づいた時にそうできた。
 しかし、いきなり疑問が生じる。
 私は気付いてできるようになったと言ったが、実はそうではないのではないか。気付いたと思った時点で偶々数学が分かるようになったのであって、超越論的な思考との因果関係は無いのではないか、と。確かにそうだ。強い因果関係があるとは言い難い。言えるのは、相関がある、までだろう。超越論的思考が、数学のための条件になっている、とまでだ。前者ができるからといって必ずしも後者ができるとは限らないが、前者ができなければ後者ができない。一応こう考えてみて進む。
 そして、超越論的思考ができる必要があるが、数学のできる子はそれに気付いていない。これは、できることは気付いていることとは違うということだ。
 ここで、超越論的思考に気付いていないのに数学ができる別の例を出してみる。
 私は、時々友人達に数学を勧めることがある。皆、大人である。文系で、中学高校時代は数学が苦手だった連中だ。そういう彼らに、数学のテキストを読ませて問題を解かせるのだ。すると、少なからぬ者が、スラスラと解ける。そして、皆驚く。えっ何で?、という顔をして。
 このケースを含めて、これまで記してきたことをどう考えるのか。

 ① 数学ができる子
  ・最初から数学ができる。
  ・超越論的思考に気付いていない。

 ②  私がやらせた大人
  ・最初は数学ができない。
  ・超越論的思考に気付いていない。
  ・後から数学ができるようになった。

 ③  私
  ・最初は数学ができない。
  ・超越論的思考に気付いている。
  ・後から数学ができるようになった。

 超越論的思考に気付いていることと、それができることは別のことなので、②と③は同じだと言える。②と③はどこかで超越論的思考ができるようになって、且つ、それが数学的思考に結びついたと思われる。

 こうなると話は単純になる。要点は、超越論的思考がいつ数学的思考に結び付いたかの時期の問題になるからだ。①が一番早く、②と③は同じとみなす、となる。
 では、②と③は、何故長い間数学的思考ができなかったのだろうか。それは既に答えられており、あの男子高校生と同じだったからで、それをこの記事でのこれまでの内容に即していうと、物自体の方に目を向け過ぎていて、超越論的思考がなかなか立ち上がらず、そのために数学的思考に辿り着けなかったからだ。
 しかし、そうすると、今度は、何故①はそんなに早く数学的思考ができたのだろうかという問いが立ち上がって来る。そして、答えは、物自体の方に目を向けなかったからだということになる。
 では、何故彼らは物自体に目を向けなくて済んだのだろうか。もしかすると、彼らには、物自体と現象が同じになっているのだろうか。いや、そもそも両者が登場する超越論的思考自体が彼らには無いのだろうか。もしもそうだとしたら、彼らの思考には、規則のみがあるということになるのだろうか。
 そうだとすると、②と③も、①と同様に超越論的思考が数学的思考の条件になっているとは言い難くなる。彼らにも、数学的思考が独立して立ち上がって来たのかもしれない。そして、そうなると、カントを参照するのは適切ではないことにもなる。

 結局問いが振り出しに戻った所で一旦終わりにするが、ここまで自分で書いてきて、これ本当?、と既に自分で疑っている。しかし、初めに記したように、数学については考え続けざるを得ないように思われ、その意味では、今日ここに記したことは、その思考の持続に於ける或る一つの様相だ。まあ、説明その1といった所だ。またいつか、説明その2を試みることにする。今日のものとは大きく異なった内容となるだろう。そうなるように自分に期待したい。
  
 

 

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