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星野道夫「長い旅の途上」

長い間読みかけになっていた星野道夫の「長い旅の途上」の文庫を読み終える。この本に収められている「アラスカの呼び声」という文章の中で、彼がアラスカ北極圏をセスナで飛んでいた時に感じたことが書かれている。以下一部引用です。

低気圧の接近で上空の風が強く、機体は、時々激しく揺れていた。高度を150メートルまで下げていくと、風が凪ぎ、急に新しい世界が広がった。漠然としか見えなかった森の広がりが、今はひとつひとつの木々を見分けることができる。
ガラス窓に顔をつけ、眼下に流れてゆく原野を眺めていると、何か不思議な思いがした。あの一本の木の下で、かつて誰かが佇んだことがあるのだろうか。

星野道夫「長い旅の途上」

ほとんど誰も踏み入らない、森の奥深くにある一本の木のもとに、かつて誰かが佇んでいたかもしれないといった気配のようなものは、僕もMTBで山の中を走っている時に感じることがある。この静かで人気のない山の中にも、かつては誰かがわずかの時間であれひっそりと佇んでいたかもしれなくて、例えば奈良、平安時代とかまでさかのぼってみて、そんな時代の人たちが、この同じ山上から眼下に広がる平野を見下ろして、MTBに乗った僕と同じような感慨にふけったかもしれない。そんな名前も素性も知らないはるか過去の人と同じ行動をとっているかもしれないという予感は、いったい何なんだろう?といつも思う。この、まるで時間を飛び越えたかのように今はなき人と何かを共感するしているような感覚はとても不思議。不思議すぎてなんだか頭がくらくらしてしまう。


人気のない原野を五時間も飛び続けると、やっとフェアバンクスの町の灯が見えてくる。森の木々が見分けられたように、高度を下げるにつれ、ひとつひとつの家の灯が区別できた。すると、一本の木にもった同じ不思議さを、一軒の家の灯にもっていた。自分の知り得ない人々が、それでも、それぞれのさまざまな一生を送っている。

星野道夫「長い旅の途上」

僕は夏になるとマンションの屋上で時々ビールを飲む。そんな時、屋上から見える街の灯を見ていると、僕はその灯のもとで生活をしている人たちひとりひとりの気配を感じることができる。それはこの世界の広さと様々な人々が存在していることの不思議さそのもので、たくさんの人たちが、おそらくいま僕が感じているような思いを抱えながら生きているということの不思議さでもある。
これもさっきの感覚と似たようなところがあって、生きている時代こそ同じなものの、僕は屋上から見えるその灯のもとにいる人たちの名前も素性も知らない。でも、その人たちも僕自身も、たぶん似たようなことで喜んだり悲しんだりして日々を送っているはずで、でもこれもとっても不思議なことで、僕はその不思議さをマンションの屋上で感じ取るだけでもう胸がいっぱいになる。たぶん星野道夫も似たようなことをこの時にセスナの中から感じたんだろう。

いつもは星野道夫の文章を読むと、その題材が僕たちの日常とあまりにもかけ離れているため、読んだ後の満足感と同じくらいにある種の虚しさがつきまとう。
でも、この文章を読んだ時は違っていた。いつも感じるような断絶みたいなものがなく、彼の想いも僕たちの日常も、ひとつながりのものだという感覚を持つことができた。

あと、この本では彼の妻や子どものことについて書いた文章がある。なんとなくめずらしいような気がして、なぜだか少しだけ悲しくなった。

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