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くるりのえいが

初期メンバーである森信行を招き入れてのアルバム作成の様子を映画にしたもので、その作成過程がドキュメンタリーとして記録されている。そしてそのアルバムは「感覚は道標」という名で10月に発売された。

僕はいわゆるくるり初期派のおじさんなので、今回の企画はちょっと気になっていた。でも実際に出されたアルバムを聴くと、もちろん初期の感じなんてなく、僕が期待していたものはなかった。だからこの映画を観ても仕方がないのかもしれないけど、でもせっかくのくるりの映画なので観てみることにした。


アルバムレコーディングの風景が中心に話が進む。岸田繁がイニシアチブを取って楽曲が作られているのが良くわかる。冒頭にはばらの花や東京の話が出てくる。彼らも初期の作品をそれなりに意識して今回のアルバムを作ったのだと推測できる。でも出来上がったものはやっぱり違う。なんというか、曲自体や岸田繁の声にかつての勢いはない。それはこのアルバムに限ったことではなく、最近の曲は概ねそうだ(僕は「ワルツを踊れ」以降はもう決定的に変わってしまっていると思っている)。
個人的な感想になるけど、初期のくるりの曲はとてもざらざらしていて、聴いている人の心を擦りむいていくような荒さがあった。それはとても魅力的で、聴く者自身が傷つくことも厭わないような何かが存在していた。
でも今の曲は必要以上に滑らかで耳障りがよく、聴く人を傷つけたりはしない。だからといってそれがだめだというわけではなく、今だって若い世代でも彼らの曲を聴く人は多いしそれなりに人気もあるはず。
だけど、かつてのように僕の心は擦りむかれたりなんてしない。万力で締められるようなこともない。だから僕の心には彼らの曲は留まらない。

そういうわけで、ちょっと一方的ではあるけど、なんとなく痛々しい心持ちでこの映画を観ていた。


そんな気持ちと同時に、彼らはやっぱり同世代なんだという思いもあった。僕自身、やはり10代や20代の頃と変わってしまっていることは多々あるし、それは変化や進化なんてものではなく、むしろ喪失や衰退に近いものが多いように思う。かつての自分と変わっていかざるを得ない中で、どうやって自己同一性を保つことができるか。それは僕自身にとっても興味のある問題だし、くるりにとっても大きな問題なんだと思う。だからこそ、今回のように森信行を再び組み入れ、かつてのような音楽を作ろうとしていたのかもしれない。

同世代であり、僕に京都で住み続けることを決定づけさせた存在であるくるり。なんだか少し悔しいのだけど、彼らがどんな音楽を作り出そうとも、僕にとってはおそらくいつまでも気になる存在であることに変わりはない。
たぶんこれからも彼らの新しい曲が出れば一応聴くと思う。そしておそらく初期の頃との違いにがっかりしてしまうのだろう。そして結局それをずっと繰り返していきそうな気がする。


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