歌舞伎 市川XXとは何かまとめ

猿之助丈が世間で騒がれる状況ですが猿之助丈は贔屓の一人でもあるので当然明治座チケット持っていて過日いってきました。

メディアの中では「歌舞伎名門の澤瀉屋」とか歌舞伎名門という枕詞がついてます、さて、名門って何?

今回の出来事について話す気はないですが、この際、歌舞伎の名門とは?をまとめていきます。

猿之助さんの澤瀉屋はサワガタヤではなく「おもだかや」と読みます。
市川となっています、当然市川團十郎家と関係があります。

13代團十郎の時も騒がれましたが團十郎の家は「市川宗家」。

宗家とは「ある一門、一族において
正嫡の家系、またはその当主です直系で率いるもの、って感じですかね。

なぜ團十郎家が宗家と呼ばれるか、それは、そもそも江戸時代の役者は地位としては下層、それを大きく押し上げたのが間違いなく市川團十郎、初代と二代だったからでしょう。

團十郎家のルーツは武家と言われています。

江戸時代芝居(あえて歌舞伎とは呼ばず)は座元が力を持っていました。

森田座、市村座、中村座・・・
この芝居小屋の座元がベテラン俳優を座頭として名指しして芝居興行をしていましたが、唯一、市川團十郎だけは若くても座頭を許されました、
それはなぜか:

初代團十郎の初舞台は14歳で、場所は中村座であったという記録があります。

1670年以降、上方では坂田藤十郎を中心に、近松門左衛門の浄瑠璃をベースに和事と呼ばれる人情劇が確立、時を同じくして江戸では「荒事」が市川團十郎により確立します。

もともと荒々しい武者が立ち回り劇が江戸ではあった中、今でこそ歌舞伎といえば・・・と人々に想起させる「隈取り」という顔の筋肉を誇張した独特の化粧法をこの團十郎が創作します。

これらが相まって荒唐無稽と言えばそれまでけど、豪快な舞台に仕上がり、それが荒事と呼ばれるようになります。

初代團十郎が一人で考えたかは誰も知る由がないけれど、この一人によって江戸歌舞伎は大きく変革したのは事実。

また元々当時の役者には「芸を引き継ぐ」という考えはなく「家の芸」なるものは存在しなかったのですが、この團十郎のルーツが武士だったからなのか家を継がせる、そう家の芸として次代に継がせようと動きました。……これが「家の芸」の始まりです。

また、初代の團十郎は役者であると同時に、台本家・三枡屋兵庫の名で作家活動もしていました(市川家の紋の一つ三桝はここから)、そもそも総合プロデュース力があったのかもしれないですね。

この初代はなかなか子宝に恵まれず
成田不動に祈願したのちにニ代目を授かったので、二代目は「成田不動の申し子」とされ今も市川家の屋号が成田屋と呼ばれるのはそういう理由です。

こうして生まれた二代目は史上初の「二世タレント」となり、歌舞伎史上初めての子役、親子共演と何かと話題になりました。

ここから歌舞伎の世襲制の始まりです。

そんな革新的な芝居を始めた初代團十郎は、芝居中、あっけなく共演者に刺され死亡しました。

引き継いだ二代目は、当初は冷遇されながらも自分の芸を高めたことで
劇界の最高位となリました。

三代目、四代目の頃には市川團十郎は、役者であると同時に江戸歌舞伎全体の統率者、そんな存在になります。

團十郎は芸名であるとともに、劇界でのまさに「役職」となり、若くても座頭を務められるそんな存在になったようです。

その辺りから芝居を見にいくというだけでなく、現代に近い「役者を見に行く」という傾向が強まっていったのかもしれません。

時代が流れ、七代目は歌舞伎十八番を制定し、勧進帳を作り上げました。(後述の)九代目存命中までは歌舞伎十八番を演じるには市川宗家の許可が必要でした。

その後八代目は自死し、

九代目市川團十郎は七代目の実子で
明治時代には「劇聖」と呼ばれたのですが、なんと、七代目から芸を教わることはもちろん、ほとんど一緒に暮らしたこともかったそうです。

それでも明治という大変革の時代に革新をもたらそうとし、これまでの荒事やドロドロの人情劇にリアルな描写ももつ高尚な演劇性をプラスして変革しようと奔走しますが、人々には受け入れられにくかったようです。

ところが高尚化を目指したことが明治新政府の高官らに認めらたことが、芝居が「日本の伝統芸能」へと
ランクアップのきっかけになりました。

次の問題は九代目には娘ばかりで後継の男子が生まれなかったこと。

普通なら娘婿を・・・というところ九代目は伝統にこだわらない人で娘を銀行員,(後に追善で十代目)に
嫁がせました。そして資産を娘婿に、芸を一門の猿翁、左團次、猿之助、他、菊五郎、幸四郎、市村羽左衛門らに継がせることにしたのです。

要するに芸を広く暖簾分けにより、現代歌舞伎の名門と言われる家々となる、ルーツが市川宗家ということなのであります。

九代目は、各家に分けた芸を「一人で」持っていたわけ、どれだけ凄い人だったんでしょ。


九代目の死後、歌舞伎界の最高位は一旦空席になりました。

今のでもご高齢の歌舞伎ファンが知る十一代目は幸四郎の子で十代目の養子となり、2013年に亡くたった十二代(先代團十郎)へと続きました。

と、猿之助丈の話ついでに歌舞伎のおさらいでした。

どんな世界も知れば知るほど面白い、興味の幅を広げておくといいと思います。

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