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孤食は本当に寂しいのか?

「孤食」
という言葉があります。
「個人が食事をしている際に本人の意思とは別に一人で食べることを決定されてしまっている・孤独を感じてしまう・その孤独によって辛いと感じてしまう状態を指す語」
となっています。ウィキペディアさんによる所。

僕も、一人暮らしで、独り身だし、1人で飯を食う事は揺るぎないデフォルトです。食事に限らず、何をするのも基本ライン孤独なので、それが寂しい事なのかどうか忘れるくらいにもう、1人です。
食事自体は、美味しいです。
食べること、大好き将軍。

仕事仲間や、友人と呼べるような仲間もいますが、特に一緒に飯を食うことが、親密さの検証事項なのかどうか? よくわかりません。
話をするついでに、酒を呑んだり、飯を食ったりすることが、それこそ肴になる事。接着剤や融和剤や緩衝剤として機能する事。は、よくわかります。
だけれど、1人で飯を食う事=寂しい。と断じられてしまうのには、違和感があります。

学生が友達がいなくって、学校のトイレの個室で飯を食う。
みたいな事が、「信じられな〜い」テンションで語られることにも違和感があります。

僕は少なくともそうであったし、今もほとんどそうです。

映画やライブや遊興施設にも1人で赴きますが、その際に喜びやつまらなさを共有しよう!みたいな感覚はかなり薄いです。

人に囲まれて、人の笑顔に囲まれて暮らす事。への、ささやかな憧れはありますけれど、それが、絶対的な価値だとも思いません。

1人で、考えの沼に落ちて、水の底であえいでいる時に、誰かの言葉に救われたり、誰かが手を差し伸べてくれたり、それに感謝したりする事は、これまで幾度も経験してきました。
自家中毒におちいった時に、誰かとの対話で、目の前が開かれたような経験もありました。

だけど、結局、自分は1人なのだなぁ。
と、思い続けてきました。
何かを判断して、何処に向かうか決めて、何かを企む時。
結局、1人で孤で納得して、立ち向かわねばならない。

「んな事わかってるよぉ。ただ、飯はみんなで食ったほうが楽しいじゃんか?」
というカジュアルな話だとは、思うのですが、「みんなで食う」のは楽しい時も、苦しい時も、切ない時も、味気ない時もあるのです。
「みんなで食う」からこそ、むしろ孤独を感じる瞬間も少なくないのです。
そして何より「孤独」は結構、悪くない。好きです。
強がりなんかじゃないんだからっ。

多分、自分勝手なんだと思います。
都合のいい時だけ、みんなで食べたい。
だけど、その食事の大部分は「孤食」でいいです。
1人で飯を食う時の感情と向き合って生きていきたいです。

こんな事をnoteに書いているのは、誰かと対話したいからだろ?
そうだと、思います。
でも、都合のいい時だけね。

ただ、食事代を奢ってもらう場合は、「お金が浮く」という感情が最優先事項に浮上しますので、その場合は、よろしくお願いします。
お金ください。

あと「孤食」が本当に辛い人は、買い食いしながら街を歩いたりすれば、気分が晴れるんじゃないでしょうか?
オススメです。

「孤独死」が寂しいとか「孤食」のかわいそうな人。
という言い方が嫌いだ。という話でした。
ほっといてくれ!
強がりなんかじゃないんだからっ!

尾崎放哉の
「咳をしても一人」
という句は、孤独の寂しさを憂いた句ではなくって、孤独の自由さと強さをうたっっているんだと思います。

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