景色は流れる、時間も流れる

前回のnoteにおいて、「頑張って書くぞ!」というような決意をした。
しかし新年を迎え、一月を終え、「#note書き初め」の応募すら終了しているのを見て思った。
このままではnoteをまた一年眠らせることになる。
それは大変よろしくないので、最近考えていたことを文章にすることにした。



私は「考えなくても生活に困らないことをぼんやり考えて、自分なりの答えを出すこと」が趣味であり悪癖でもある。

最近「時間は流れているのか」という問いを目にする機会があったので時間と人間の関係性を想像した。
すると、時間という果てしなく長い帯の上を人間が等しい速度で歩いているという図が思い浮かんだ。
結果、動きの主体は人間であり、人間から流れているように見えるだけで「時間は流れていない」ように感じた。

「この話を書こう」と思った際なんとなく上記の考えを掘り下げてしまい、ひとつの仮説を思いついた。
せっかくだからそれも言葉にしてまとめてみようと思う。


電車に乗って窓の外を見ると目の前にあった家が一瞬で遠ざかっていった、というような経験は誰しもあるだろう。
そして人はそれを、「景色が流れる」と表現する。
しかしその表現は人の主観であり、実際に動いているのは人を乗せている電車だ。

「時間が流れる」というのも人独自の視点、主観だ。
私は時間が【レール】で、人はその上を走る【電車】に乗っている状態にあると仮定した。
そして人がもつそれぞれの過去を【車窓から見た景色】とした。

レールの上を走る電車に乗った我々が窓の外を見て「あ、家だ」と思った途端、家は遠ざかっていく。
我々が「今」を認識しても、それは即座に「数秒前」という過去になってしまう。

自分と家との距離を感じて「景色が流れる」と表現する。
自分と過去との距離を感じて「時間が流れる」と表現する。

しかし実際、景色が「流れる」ことはない。
ということは時間も「流れて」いない、ということになる。 

これらのことから私は、時間が「流れる」というのはあくまで人間の主観による表現であると考え、「流れているのか」というような現象の本質を問われた場合においては「流れていない」と答える。




ここまで意気揚々と書いてみたものの、自分でも何が言いたいのかよく分からなくなってしまった。深夜に回らない頭を使いすぎたのかもしれない。

変な文章とはいえせっかく睡眠時間を削って懸命に書いたので、noteを再び眠らせないという重要な目標を達成したことと併せて良しとしたい。

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