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おらっさん

 ひさしぶりに感じる潮風が慎一の記憶を呼び起こした。小学生の夏休みに祖父の家に泊まりに来たとき、祖父と一緒にこの海岸沿いの道をよく歩いたものだった。あれから十年ちょっとの時がすぎたけれど海岸沿いのこの道は記憶のなかの道とそれほど変わっていない。背が伸びて視界が高くなったせいか道幅が小さく感じるぐらいだった。しかし背が高くなっても右手に見える海は遥か広く、その向こうに見える九州本土も大きかった。もちろん慎一が今いる島、長崎北部にある平戸島も大きかった。
 日差しは冬の終わりを告げていた。背中に当たる潮風に押されて慎一は次第に歩みを速める。道行く人を追い抜いていく。そういえば春休みになって実家に戻ってから走っていなかった。
 家でぐーたらしている慎一に「あんた家で暇しているだけなら、おじいさんの家に行って家のなかを後片付けしてくれない」と母親が言った。今年のはじめ頃に父方の祖父が亡くなった。祖母は二年前に亡くなり、それ以来、祖父は一人で生活していた。80歳半ばという年齢だったが時々近所の人達の世話になりながらも元気で生活していたのだが、なんの前触れもなく操り人形の糸が切れたかのように祖父の命の火は消えた。寝ている間のことだったらしい。
 祖父の家は慎一の父が長男だったこともあり受け継ぐことになったが、祖父の家は長崎にあるのにたいして、子どもたちはみな東京近辺に住んでいて、一番長崎から近いというだけで家を受け継いだ父は管理するにも処分するにも貧乏くじを引いた感じだった。そしてその家の後片付けと掃除を任された慎一はさらに貧乏くじをひいた。
 祖父は達者だったとはいえ、小さいけれども二階建ての祖父の家は、特に二階はホコリだらけだった。一人で生活するには一階だけでじゅうぶんで二階に上がることなどなかったのだろう。「価値のあるもんなんか残ってないから、衣類とか食器とか、処分できそうなものは処分しちゃってきてよ。電気と水道は使えるようにしてあるけど、ガスは面倒だから止めたままなの。どうせあんた自炊なんかしないからいいでしょ」「風呂があるだろ」「近所に銭湯があるからだいじょうぶよ。小さい頃おじいさんと一緒に行ったことあるでしょ。覚えてない? それも嫌だったら向こうに着いたら自分で手続しといてよ」母親が言う。
 潮風を背中に受けてスピードがあがる。気持ちがいいけれど靴はスニーカーで本格的に走る用意はしていない。今日はやめておこうとスピードを落としたところで強風がふいた。深緑色の帽子が慎一を追い抜いていった。捕まえるためにふたたびスピードをあげる。風が止み地面を転がっていく帽子は慎一の5メートルほど先で止まった。慎一はかがんで帽子を取ると後ろを振り返った。釣り竿を手に持った白髪頭の老人がこちらに走ってくるのが見えた。「すまんのお、帽子が飛んでしもうた」
 老人は橋本四郎と名乗った。この近辺に住んでいて、毎日のようにこの海岸で釣りをしていると言った。何が釣れるんですと聞くと、少してれ笑いしながら、わしは魚ば釣るよりもこけー来てぼーっと景色ばみるとがたのしみなんじゃと言った。言われてみると背中にバッグは背負っているがクーラーボックスみたいなものは持っていない。
「見かけん顔じゃばってん、最近引っ越してきたんかいな」
 慎一は祖父が亡くなったこと、そして祖父の家の片づけに来ていることを話した。
「今年亡くなったちゅうと、ひょっとしてあんた和夫さんの孫かいな」
「祖父を知っているんですか? 僕は孫の慎一です」
「おお、そうか、そうやったんか、早う言うてくれりゃよかもんば。そうか和夫さんの孫か。わしは和夫さんにはえろう世話になってのお」
 四郎さんは慎一の祖父、和夫の二つ年下で中学の時の先輩後輩の間柄だった。部活も同じ野球部で、四郎さんは祖父にずいぶんとしごかれたけれど、祖父は四郎さんのことを特に気に入っていたらしく、卒業してもなにかと四郎、四郎とかまっていたそうだ。
「目元のあたりが和夫さんに似とるなあ」四郎さんは慎一の顔をじっと見ながらなつかしそうな表情をした。日焼けした顔にいっそうシワが増えた。
「わしは、いつもここんにきで釣りばしとるんばい」そう言ってしょっていたバッグを下すと釣りの準備を始めた。「わしも年やし、あの世に行ったら和夫さんに会えることもあるかもしらんばい、わしは行いが悪いかばってん無理かもしらんが」

 今日も晴れている。ジョギングシューズを持ってきてよかったと思った。海岸通りに出て少し本格的に走り始めると釣りをしている四郎さんの姿が見えた。
「おはようございます」立ち止まって声をかける。
 四郎さんは釣り竿をたらしながら海をはさんで向こう側に見える九州本土のほうを見つめていた。
 聞こえなかったのだろうか、もう一度声をかける。
「四郎さん、おはようございます」
 びくっとしながら四郎さんは振り返った。慎一の姿をみてにこっと笑う。
「何か釣れますか?」
「メバルがそろそろじゃが、ありゃ夜釣りじゃ」四郎さんは答えた。日焼けした顔がすこし赤らんだように見えた。

「いらっしゃい。今日はアオリイカん良かとが入ったけん照り焼きイカステーキがおすすめばい」のれんをくぐったと同時にマチコさんが慎一の顔を見てそう言った。マチコさんは商店街の外れにあるこの食堂をひとりで切り盛りしている。旦那さんは普通のサラリーマンで退職後は手伝うよとか言っているようだが、どうだかねえとマチコさんはたまに旦那さんの文句を言う。でも密かに期待はしているらしい。慎一は三、四日に一度は夕食を食べにやってくる。
「じゃ、それでお願いします」マチコさんのおすすめに外れはなかった。
 店の奥の四人がけのテーブルに座り、店においてある漫画雑誌を読んでいると店の扉が開いた。「いらっしゃい、今日はちょっと早かやなかと、いつもんでいかろ」マチコさんは店に入ってきた客の顔をろくに見もせずに言う。
「まだ夜は冷えるのう」
 聞き覚えのある声が返答した。顔を上げて店の入り口を見ると四郎さんがカウンターに歩いていく姿が見えた。「四郎さんじゃないですか」
「おお、慎一くんか、一人なのかい」「よかったらこっちにどうぞ」「あら、あんたたち知り合いと?」マチコさんが言った。

 小学生のころ、祖父に連れられてこの海岸で釣りをしたことを思い出した。あのときはさんざんだった。祖父は次々と釣り上げるのに慎一はぜんぜん釣れなかった。なにが楽しいのかと、隣でにこにこと笑っている祖父の顔をみてそう思った。そして「もうやだ、こんなのつまんない」釣り竿を投げ捨てて慎一は一人、祖父を置いてきぼりにして帰ってしまった。しばらくして祖父が困った顔をしながら帰ってきた。事情を知った祖母は祖父をしかりつけ、慎一にやさしく言った。「じいちゃんにはうちが叱っといたけんだいじょうぶばい」
 それ以来、慎一は祖父の家に行きたがらなくなった。中学になり家族や親族と一緒に行動するよりも友達と一緒に遊ぶほうが楽しくなったこともある。そして慎一もこのことをすっかりと忘れてしまっていた。

 慎一は釣糸をたらす四郎さんの隣に座っていた。時々四郎さんは慎一の祖父の昔話をしてくれたが、その間、四郎さんの釣り竿はピクリともしなかった。慎一は四郎さんが海の向こうの九州本土のある一方こうの方をじっと見つめる時があることに気がついた。でも四郎さんの視線の向こうは木々が生い茂っているばかりだった。
「向こう側に何かあるんですか?」
 四郎さんは慎一の顔を見ると、確かめるかのように見つめた。しばらくして「……生い茂った木で隠れてみえんが、向こう側にわしん娘が入院しとー病院があるんじゃ」と答えた。
「そうなんですか、はやく良くなって退院されるといいですね。すみません、変なこと聞いちゃって」
 四郎さんはかぶりをふった。
「ずっと入院したままなんよ」そしてあわててつけたした。「といってもべつに不治ん病ちゅうわけやなかよ、体んほうはぴんぴんしとる。へたするとわしよりじょうぶかもしらん」
「こんくらいの孫がいたのかもしらんなあ」波の音に紛れて小声がきこえた。

 祖父の家もだいぶ片付いてきた。大きな家具は残っているが、家具つきで誰かに貸し出してもいいんじゃないかと思った。家は人が住んでいてないと痛むというし。もう慎一がここにいてもやることはなかったし、春休みも終わりに近い。三日後に帰ると母親に連絡した。大学を卒業したら、こっちに就職先を見つけてこの家に住むというのも悪くはないなと思い始めていた。ガスは止めたままなので風呂は使っていない。しかし、風呂掃除をした限りでは風呂も十分に使えそうだった。今日は少し早めに銭湯に行ってゆっくりと浸かろう。
 調子に乗りすぎて風呂に浸かりすぎ、少しのぼせぎみで、銭湯の親父に心配されながら外に出ると、火照った体に風が心地よかった。遠くで救急車のサイレンの音が聞こえる。こんな夜に大変だなと思いながらも、昼だったとしても大変なのは変わりないかと思いつつ帰り道を急いだ。
 その夜、ネットで四郎さんの言っていた病院を調べてみた。そこは精神病院だった。祖父の釣り竿が残っているかもしれないなと慎一は考えた。庭の物置のなかにあるかもしれない。慎一は物置の鍵を手に取った。

 翌日慎一は釣り竿を持って海岸通りに向かった。四郎さんに釣りを教えてもらいながら今度こそ釣りを楽しんでみようと思ったのだ。祖父が生きているうちにやっておけばよかったと少し後悔していた。
 しかし、いつもと同じ時間だったけれど、いつもの場所に四郎さんはいなかった。しばらくすれば来るだろうと、釣り糸をたらしてみた。考えなしに糸をたらしているので釣れはしないこともわかっている。四郎さんとおなじように、向こう側の景色をぼんやりと眺めるだけだ。が、その日は昼過ぎまで待っても四郎さんは来なかった。そしてその翌日も。
 明日は帰るという夜、商店街の外れの食堂に夕飯を食べに傘をもって出掛けた。ひと雨来そうな天気だったが空は持ちこたえている。今日は客もまばらでマチコさんも暇そうにしていた。注文を取りに来たとき、明日帰るんですというと、そうかい、寂しくなるねえ。と言ってマチコさんは厨房に入っていった。料理を持ってきたとき、マチコさんの目が少し赤かったのに気がついた。「帰っても元気でね、風邪なんかひくんやなかばい。もっと早う言うてくれればよかったのに」と笑いながら言う。
「すみません、なかなか言い出しにくくて、それに早めに言ってしまうと送別会開くとか言い出しそうで」「そりゃそうねえお別れ会ば開いたばい」豪快に笑った。
「そういえば、四郎さん最近見かけないんですけど、何か知ってます?」
 マチコさんの表情が暗くなった。
「四郎さんねえ、二日前ん夜に救急車で運ばれて、心臓が悪かったらしゅう、病院についたときにはもう助からんじゃったと」
「え?」慎一はおどろいた。あのときの救急車がそうだったのかもしれない二日前の記憶がよみがえった。
「身寄りがなかったけん自治体で火葬してもらってね」
「え、確か娘さんが入院してるって聞いたんですけど……」戸惑いながら聞き返した。
「……あんたにもそう言いよったんやなあ、四郎さんは」マチコさんは慎一の正面の椅子を引くとゆっくりと腰をおろした。「あの病院に入院しとーとは四郎さんの奥さんなの。もう40年以上もずっとね。娘さんなんておらんのよ、四郎さん夫婦には。奥さんも昔は良うなれば退院することがでけたけれども何度も再発してしもうて、そのうちに退院することもでけんごとなってしもうたって、四郎さん言いよった。で、これん問題もあって離婚したげなと。生活保護にするしかないってね」マチコさんは人差し指と親指をくっつけて丸を作った。
 慎一は娘が入院していると言っていたときの四郎さんの顔を思い出そうとした。
「だんだんと子供みたくなってくって四郎さん言いよったわ。奥さんやと思うと辛うなるって……」マチコさんは店の外を見つめた。慎一もつられて店の外を見る。窓ガラスにポツリ、ポツリ水滴が流れ落ちていく。
 会計を済ませて店を出ると雨は本降りになる前に止んでいた。


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