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prey and pray

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prey and pray

 ねえ、私のこと愛してくれる。去っていった妻の声が蘇る。肉を殴る音とその後に続く、こもった呻き声。それは地下室の中を満たしていく二つの音だ。殴るたびに椅子に座った目の前の肉体から滴り落ちていく。命を循環している赤い液体が地下室の床を塗り替えていく。後ろにいる男の三時間前の言葉が蘇る。「二時間かけて殴り殺せ」壁の時計は一時間経ったことを教えてくれる。力を入れた右腕がしなると、肉塊にぶつかる。黒い覆面越しに漏れる呻き声が、この部屋を満たしていく。殴るのに手加減していてもバンテージを巻いた右手は鈍い痛みを伝えてくる。時間と引き換えに苦痛が満ちていく。殴れば泣き声がするのに終了のゴングはまだ鳴らない。真新しいSONYのビデオを構えた小僧が右から左へと移動していく。軽やかなフットワークだが、こんなものにカメラワークが必要なのか、スナッフムービーに。それとも新しいおもちゃが楽しいのだろうか。撮り終えた映画は誰が観るというのだろう。外はあんなにも死に満ちているというのにまだ死を見たいのか。あるいは無慈悲な死に囲まれた時、それ以上の無慈悲があることを思い出して、まだましだと思いたいのか。前回はましだった。うなだれている頭蓋を立たせてその右頬を殴る。呻き声。足も使えたからだ。その前はペンチのみ。二時間持たすのに苦労した。右手を潰しておくか。肉塊の右肩を四回殴ったところで骨が折れる音がした。呻き声がこの部屋に満ちていく。覆面を被った胴体は椅子の上で暴れるが、縛り付けられた右手は肘掛けの上に行儀よく載っている。「少し休んでいいか?」返事を待たずにペットボトルの蓋を開けて水を飲む。ビデオを構えた小僧が舌打ちしながら一時停止のボタンを押すのが見えた。殴り殺せと命令した男は何もいわない。殴る者と殴られる者。二人だけの出演者。「女だからといって手を抜くな」「大丈夫だ」三人の男だけがその声を聴いている。黒い布袋を頭にかぶった女は渦巻く轟音を聴いているのだろう。地鳴りのような轟音を。鼓膜はもう彼女に音を伝えない。自分を殴る音はもう聞こえない。脳裏に男の声が蘇る。「そいつはうちの店の金をちょろまかした。返せるはずもない金額だ。娘が病気だってのが理由らしいが、そんなことは関係ない。運良くスナッフムービーの注文が入ったから出てもらうことにした。もちろん出演料は払うさ。ちょろまかした分を差し引いてだがな」「出演料のほうが多いのか」「当たり前だ。ほら、娘あての小切手だ」男が見せてくれたのは手帳の切れ端に書いた三桁の数字と名前らしき文字だった。それは彼の罪悪感でもあったのだろうが、一吹きすれば飛び去ってしまう程度の軽さだった。明日にはゴミ箱まで吹き飛んでいくだろう。赤く染まったバンデージを解いて新しく巻きなおす。すぐに染まるのは知っている。「そろそろ覆面をとったほうがいいだろう」「それも注文か?」「そうだ。潰れたのはいいが潰れていくのを見るのは嫌いらしい。もう動かなくなってきているから演出を変えないとな」演出か。最後に上がったリングが蘇る。あのときも演出だといわれたが、実際は八百長だった。散々殴られたあとで待っていたのは資格の剥奪。リングはエベレスト山脈よりも高い場所になってしまった。リングから落ちてもなんとかなると思ったが、地下室まで落ちたらどうしようもなかった。妻は娘を連れて去っていった。ニナ、ジーナ。今でも愛している。嘘、愛し方なんて知らないくせに。でも大丈夫よ、私が愛してあげる。返事の代わりに彼女の顎下を二本の指でくすぐる。彼女の体が優しく震える。彼女のブルーアイが優しく見つめる。大丈夫さ、愛し方は知っている。でも彼女は去っていった。愛し方は知っていても真面目な生き方は知らなかったからだ。じっとりとした布袋を剥ぎ取ろうとすると何かが引っかかった。構わず剥ぎ取ると、血濡れた白い玉がこぼれ落ちて肉塊と化した顔にぶら下がった。落ちる瞬間、青い瞳がこちらを見つめた。反対側のまぶたは紫色に腫れ上がり、殴った男の姿を見ることもない。もう見ることに意味はない。口元から丸めた新聞紙の塊がはみ出していた。もう意味はない。こもった呻き声を作り出していた塊を口から取り除く。新聞紙の塊にくっついていた血濡れたコーン粒が床に落ちて硬い音を響かせる。口元のホクロに気がついた。ぶら下がったブルーアイが見つめている。罪悪感に書かれたジーナという名前。目の前にいるのはニナなのだろうか。二本の指で肉塊となった顎下をくすぐる。それまで震えることのなかった肉塊が震えた。娘はまだ生きているのだろうか。肉塊を殴る音と呻き声がこの部屋を満たしても、叫び声はこの部屋から外に出ることはない。出ていくのは三人の男と冷たくなった肉体。犠牲者はそして祈るしかない。この世界のどこにも存在しない神に対して。生きようとする本能は絶望という意思を消し去ろうと試みるが本能は殴られるたびに削り取られていく。彼女を殴る両手は、彼女の命を削り続ける。殴ることで消費されるカロリーは命に対して等価交換という経済活動を行なっていく。お互い出演料は受け取ってしまった。そしてどんなに絶望しようとも終わりの時間はまだ来ない。この映画のエンディングテーマが流れるまでは。吐き出す力を失った吐瀉物はそれを生み出した彼女の表皮をゆっくりと流れ落ちてゆく。少し前は憤怒の塊を吹き出していたというのに。犠牲者はそして祈れ。きみを天国に連れて行く神はどこにもいない。犠牲者はそして祈れ。私を地獄へと連れて行く悪魔に対して。大丈夫だ、ニナ。きみの愛し方は知っている。
 背後から陽気なラブソングが流れ始めた。「Samo ljubav vrijedi」少し前に流行った歌だ。

救済に関する緩やかな三部作


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