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散花は水に流れ行く

流水

 エンジンを切るとラジオから流れていたパーソナリティーの声が途切れて、車内は静かになった。誠はシートにもたれかかると運転席の窓から見える建物を見上げた。ここからだと見えるのは三階まで、それより上の階は見えなかった。建物の窓には人影は見えない。その代わり、建物と建物の隙間からは昼間の月が見えた。ため息のような息をはくとペットボトルを手に取って一口飲んだ。微糖と書かれていたが誠には甘すぎた。ドリンクホルダーに戻そうとしたところで力を入れすぎてペットボトルはぐちゃっと潰れ、あやうく落としそうになる。微糖とはいえ、こぼせば水拭きしないと乾いてもベトベトするだろう、危なかった。最近のペットボトルは原価を安くするためか、それとも潰しやすくするためだろうか、むかしと比べて柔らかくなっている。ちょっと強く握ってしまうとぐちゃりと潰れてしまう。そういえば智子もおなじようにこぼしてしまったな。誠はむかしのことをおもい出した。それは結婚記念日の一週間後のことだった。智子がペットボトルを握りつぶしてしまったのは誠が急ブレーキをかけたせいだったので智子にひどく怒られてしまった。家に帰ると誠は濡らした雑巾で拭き取って後始末をした。そんなに怒らなくてもいいのに、とおもう。それでも結婚してから智子はずいぶんと丸くなった。付き合っていた頃はもっと怒りっぽかった。
 助手席から体を入れてドリンクホルダーの穴のなかを拭き取っていると、うしろから声がかけられた。
「まこちゃん、ライター知らない?」
 ライターなんていつもの場所にあるだろうとおもいながら、後ずさりして車から体を抜け出す。キッチンの引き出しにあるはずだとおもったところで過去の記憶が走馬灯のように脳裏に映しだされていった。昨日の夜だ。いっぱいになったゴミ箱のゴミ袋を縛ったあと、新しいゴミ袋を取り出そうとキッチンの棚を開けたとき、そこにライターが見えた。
「キッチンの上の棚じゃない」
「えー、なんでそんなところに置くのよ。いつもの場所に置いといてよ。ライターはキッチンの引き出し」置いたのは自分じゃないと誠が言おうとするまえに智子は家のなかに入っていってしまった。ライターの映像が引き金となって記憶が遡っていく。誠が最後にライターを使ったのは今年の初め、強風が吹いていた夜に停電したときのことだった。ろうそくを出して火をつけてしばらくすると停電は終わり、電気がついた。「片付けておくわ」と言ってライターとろうそくをうけとった智子がキッチンの引き出しにしまう記憶がよみがえる。誠は智子の後ろ姿を見ていた。だから誠の知らないところで智子が棚に入れたとしか考えられない。
 掃除を終えて家のなかに入るとけむり臭かった。一瞬火事かと考えたが、靴箱の上のお香が目に入る。そうかさっきの買い物で智子が買ったお香の匂いだ。100円均一で買った安物だからだろうか、ラベンダーの香りとなっているが、ラベンダーの香りはあまりしてこない。いや、お香とラベンダーの香りが合わないせいかもしれない。それでもお香が燃えているときはもうすこしラベンダーらしい匂いがしていたのかもしれない。むかし見た映画をおもい出す。ラベンダーの匂いで過去にタイムスリップする映画だ。結婚したてのころにテレビで放送したのを智子と一緒に見た記憶が脳裏に映しだされる。誠も智子もその映画の主役の役者が好きだったし、その映画のなかで流れる歌も好きだった。
「これじゃタイムスリップなんてしないね」居間に入ると誠は智子に冗談っぽくいう。
「なんの話?」怪訝そうな表情で誠を見つめた。
「ほら、むかし一緒に見ただろ。映画。ラベンダーの香りで過去にタイムスリップしちゃう話」
「えー、そんなの見てないわ。一人で見たんじゃない」
 これも忘れてしまったのかと誠はおもった。しばらく前から誠がむかしのことを話しても知らないと言い返すことが多くなった。歳をとれば物忘れも多くなってくるが、それでもまだ四十代後半だ。ひょっとして若年性痴呆症なのではないかという不安もよぎる。
 誠は生まれた時から目にしたもの、耳で聞いたもの、味わったもの、触れたもの、一切合切の記憶を持っている。どれひとつおもい出せないものはなかった。なぜ自分が忘れることができないのかわからなかった。このことは両親にも話すことはなかったし、智子にも話したことはない。覚えていることは当然のことだったので小学生のころは授業でテストする意味がわからなかった。答案用紙が返ってきて満点を取る人間はごく少数であることが不思議で、テストというのはわざと間違えなければいけないものなのかとおもったこともある。ただ、それも暗記していれば回答できるテストの場合だけで、応用問題がでるようになってからは違った。だから誠の記憶力が同級生から不気味におもわれることもなく、暗記力が凄いとおもわれるだけだった。誠の記憶の問題は周りの人間に知られることなく、誠ひとりのなかで自問自答しながらうまく世間とのかかわり合いをとっていくことができた。知っていることでも適度に忘れたふりをし、適度に正解を答え、それはその場の空気を読んでいれば造作ないことだったし、過去の言動と辻褄が合わなくなることはなかった。仮に合わなかったとしても他人は誠のようにすべてを記憶しているわけではなかったので気づかれることもない。
 記憶しているだけなので見たことのないものは知るよしもなかった。だから誠にも知らないことはたくさんある。しかし智子は誠のことを物知りだとおもっているらしかった。
「ねえ、これなんて読むの」智子は読んでいた本を誠にさしだしてきた。
 開かれたページの上で指さした箇所を見たが、そこに書かれた文字は誠も知らない漢字だった。「おつばり、かな?」字面のまま読んでみる。「どういう意味なの」と聞いてくるが、字面のとおり読んだだけなので意味などわかるはずもない。そもそも読み方が合っているのかさえもだ。「わからない」と答えると「まこちゃんってなんにも知らないのね」という辛辣な言葉がかえってきた。自分のことを棚に上げてとおもう。
「だったら自分で調べればいいじゃないか」不満げに言い返すと「はいはい、今度からそうする」とさらりとかわされる。
 どん。ソファーに座って一緒にテレビを見ていると智子が頭を肩にぶつけてきた。智子はたまにそれをやる。最初のころはそのまま抱きよせようとして嫌がられた。何度か嫌がられて、智子がそれをしてくるのは何かを誠に求めているわけではないことを理解した。それからはそのまま、智子に頭を肩にくっつけられてもじっとするようになった。甘えているのかそうじゃないのか、よくわからない。聞くだけ野暮だとおもったので理由も聞いたこともない。智子はガバッと起き上がると喉が渇いたと言い、テーブルの上のマグカップをつかむとなかのお茶を勢いよく飲んでそしてむせて辺りを濡らした。「お茶でよかった、自然に乾くでしょ」智子は気楽に言ったが、誠はティッシュペーパーをつかんだ。
 誠は床を拭いていた。
 板張りの床でよかったと、濡れた床を雑巾で拭きながら誠はおもった。畳だったらどうすればいいのか途方にくれていたかもしれない、いやそれ以前に怒りを覚えたかもしれない。達観するほど誠は人間ができていない。
「いい加減にしろ!」「本当のことを言っただけじゃん、何が悪いの」「本当のことだからって、言って良いことと悪いことがあるのがわからないのか」言葉と同時に誠の右手が動き、ピシャリという音とともに智子の顔がゆがんだ。すこしだけ感じたムッとした感情が引き金になって、誠の記憶が浮かび上がってきた。一番おもい出したくない記憶が、そのとき感じた自分の感情とともに誠の身体を支配する。誠に殴られた智子はひるまずに怒りとあざけりの表情を誠に見せつける。噴出した感情は憎悪となり、抑えきれないまま誠は智子の腕をつかんだ。掴まれた腕の痛みに智子は顔をしかめて、わんわんと泣き出した。後悔の記憶は苦しみをともなって誠に襲いかかってきた。
 忘れることができないというのは呪縛だった。おもい出すだけならばまだしも、それにともなう感情さえも再現させられる。悔いても後悔しても、そして相手が許してくれたとしてもけっして消えることはない。唯一の救いは、相手がいつか自分の過ちを忘れてくれるだろうということだけだった。たとえむしがよすぎることだとしてもそれにすがるしかなかった。
 智子が若年性痴呆症ではないかとおもうようになったのは半年ほど前からだった。同じことを何度も聞くようになった。さっき言ったばかりじゃないかという言葉を誠は何度も飲み込んだ。しかし、物忘れが多くなっただけでそれ以外に若年性痴呆症らしい症状が見られないことが、もうすこし様子を見てみるかと、病院で診てもらうという気持ちを削いでいった。
 拭き終わった雑巾をバケツに入れると両手にはめたビニールの手袋も外してバケツに入れる。その隣に置いておいたアルコール除菌のボトルをつかむと拭いたばかりの部分に吹きかける。
 シュッ、シュッ、シュッ。
 板張りの床がまた濡れていく。しかしすぐに窓から差す日差しを受けて乾いていく。
 シュッ、シュッ、シュッ。床に吹きかける。「ごめんね」智子の声が誠の背中にかけられる。その言葉を聞くたびに悲しくなる。悲しみは濡れているのだろうか。誠は自分が濡れているのか乾いているのかわからなかった。
「大丈夫だよ、そろそろワックスをかけなければいけないなとおもってたとこだったから、ちょうどよかったよ。一石二鳥だ」誠は一週間前と全く同じ言葉を繰り返す。一週間前はワックスなど用意していなかったので三日前に買っておいた。だから今日は本当にワックスをかけることができる。
「ごめんね、まこちゃん」智子もまた同じ言葉を繰り返す。しかし繰り返していることには気がついていない。
 ワックスをふりかけると灯油に似た臭いが部屋に広がっていく。アンモニア臭が残っていたとしても灯油の臭いが覆い隠してくれるだろう。
「これからオムツすることにするね、今度買い物に行った時に買ってきて」一週間前と同じセリフを言う。言葉どおりオムツを買って帰ってきた誠に「トイレぐらい一人でできるわよ、わたしのこと年寄り扱いして楽しいの?」と一週間前の智子は文句を言った。オムツは誠の部屋の押し入れの奥にある。今それを持ってくればはくだろうけれど、どうしてオムツをしているのか、その理由を忘れてしまったらまた怒るだろう。それともしている理由をおもい出してくれるだろうか。
 そんな出来事も六回繰り返した。七回目はもう、誠の名前を呼ばなかった。
「おかあさん、ごめんなさい」
 記憶の連鎖が終わった。疲れているときは連想ゲーム的なつながりで次々と記憶が勝手によみがえる。あまり疲れているわけじゃないのになと誠はおもったが、おもっているだけで気がつかない程度に疲れているのかもしれなかった。
 しばらくのあいだタブレットの画面越しでしか会うことができなかったが、ようやく直接会うことができるようになった。車から降りるとさっき見上げた病院の入り口へと歩いていく。
 長い通路の廊下に椅子が並べられていた。そこが面会できる場所だった。受付で面会に来たことを伝えるとそこに案内され、智子がやってくるのを待つ。しばらくして看護師につきそわれて智子がやってきた。下を向いたまま足元を見ている。そんな智子のおぼつかない足取りを見ていると不安になってくるが、いつものことだと誠はおもいなおす。
 自分は智子の記憶を奪ってしまっているんだろうか。そんな考えを誠はもう何十回、いや何百回も反芻した。いやこれは誠の生まれつきの呪縛だ。それよりもあのとき誠が智子を殴ってしまったせいかもしれない。あのときは頬がすこし腫れただけで、翌日は智子もけろっとしていた。だからすぐに仲直りしたし、怪我もなかった。しかし、ことあるごとに誠はおもい出す。けっして忘れることはない。それは呪縛とは考えていない後悔の記憶だった。
「今日はちょっと暖かいね」なにを話そうか一生懸命考えていたのに智子の姿を見た瞬間、考えていたことはどこかへと飛んでいってしまった。けっして忘れることはないのに、今話すことはそれじゃないと誠はおもっても口から出る言葉は違う言葉ばかりだった。智子が椅子に座ると、誠は向き合うように智子の正面に座った。
「誠だよ」
 智子は誠の後ろのほうを見ている。何が見えるのだろうかと振り返ったがそこには窓があるだけだった。日に当たる智子の頬は明るく、タブレットの画面越しにみるよりは健康そうに見えた。
「このあいだよりもちょっとふっくらしたね」
 頭のなかでは言葉がうずまいている。だからなのか、うずまく言葉は口から出てくれない。誠はだまって智子の顔を見つめた。智子はまだ窓の外を見ている。誠はゆっくりと立ち上がった。智子は誠を見ようともしない。恐る恐る誠は智子の隣に座る。智子と同じ世界を見ようとおもった。交わることはないだろうが、どこまでも平行に、だけど一緒に。忘れることのできない誠と、次々と忘れていく智子。
 窓の外は青空が広がっていた。一筋の飛行機雲と、昼間の月が白く溶け込むように浮かんでいる。それは幻想的で、地球ではないどこか別の惑星にいるかのように誠には感じられた。

落花

 そうだ、お香を買ってきたんだ。智子は思い出した。誠と一緒にスーパーで週末のまとめ買いをして家に帰り、買い込んだ食料品や日用品をしまい込んだらすっかり忘れてしまっていた。玄関で靴を脱ぎながらすぐに炊いてみようと思い、お香とお香立てを買い物袋からとりだして靴箱の上に置いて、ライターを取ってこなくちゃと思って荷物を持って台所に行ったところまではよかったというのになあ。
 誠は車の掃除をしている。飲みながら帰ろうと買ったコーヒーを誠の急ブレーキのせいで智子がこぼしてしまい、智子が文句を言うと、車のなかも掃除しなくちゃいけなかったから一石二鳥だと、謝りながらも誠は答えた。
 智子はとりたててお香を焚くのが好きというわけじゃなかった。もちろん家のなかはよい香りがしていたほうがいいにが、消臭剤を使ったほうが手っ取り早い。それでもお香を買ってしまったのは小さな鳥の形をした若草色の陶器のお香立てが気に入ったからだった。100円均一で売っているものなので高価なものじゃないけど、この鳥の形に智子は一目惚れした。
 靴箱の上に置かれたままの鳥を手に取り、バーコードのシールを剥がして靴箱の上に置くと、鳥の背中の穴にコーン型のお香を入れた。あとは火をつけるだけだったが、ライターがないことに気がついた。確かライターはキッチンの引き出しに置いてあったはずだ。そう思ってキッチンへと向かった。しかし、引き出しのなかにライターは見つからなかった。
「あれ、ないわ……」
 誠はタバコを吸わないから、家のなかでライターを使う人間といえば智子だけだった。でも智子は物を置く場所をきっちりと決めている。ハサミは二番目の引き出し、乾電池はキッチンの上の棚、テレビのリモコンでさえテーブルの上で置く位置を決めている。数センチのずれすら許さない。だからライターも使えば置きっぱなしにせず元あった場所に置く。誠が使ってどこかに置きっぱなしにしたんだろうか。こんなことならお香と一緒にライターも買っておけばよかったと後悔した。
「まこちゃん、ライター知らない?」居間の窓を開けると、助手席のドアを開けて上半身を車のなかに突っ込んでいる誠に声をかけた。もそもそと誠の体が後ずさりしてくる。車のなかから上半身を抜き出した誠はふりかえると智子の顔を見つめた。聞こえなかったのかな、もう一度聞こうとしたところで「キッチンの上の棚じゃない」と誠が答えた。
 そんな場所に置いた記憶はなかった。だから、犯人は誠だ。智子は決めつけた。
「えー、なんでそんなところに置くのよ。いつもの場所に置いといてよ。ライターはキッチンの引き出し」
 それを聞いて誠はすこし悲しそうな顔になった、ちょっと言い過ぎたかなと思ったが智子の体はもうキッチンに向かっていた。いつも頭よりも体が先に動いてしまう。
 お香に火をつけようとして、靴箱の上にうっすらと埃が積もっていることに気がつく。この間掃除をしたばかりなのにと智子は思った。指ですすっとぬぐいとると、手についた埃のかたまりを玄関に落とした。「うん、きれい」自分自身に言い聞かせる。この間っていつだったかしら。
 お香に火をつけるとラベンダーの香りが玄関から居間、キッチンへと広がっていく……のを期待していたがけむり臭さのほうが勝っていた。いわれてみればラベンダーの匂いだとわかるが、所詮は安物のお香だった。
「これじゃタイムスリップなんてしないね」掃除を終えて家のなかに入ってきた誠はそういった。
「なんの話?」
「ほら、昔一緒に見ただろ。映画。ラベンダーの香りで過去にタイムスリップしちゃう話」
「えー、そんなの見てないわ。一人で見たんじゃない」ひょっとしてわたし以外の人と見たのかしらと智子は考える。だからといってヤキモチを焼くほどのことでもない。結婚してもう十年以上も経つと浮気しなければ若いアイドルに熱中しようがそんなものは空気みたいなものでもあった。最も誠はアイドルに熱中してはいない。それを思うとアイドルに熱中していたとしたらちょっとはヤキモチを焼くのかもしれないと思ったが、ティッシュで鼻をかんでいる誠の顔を見て、やっぱりそんなことはないなと思いなおす。
「ん、なにか顔についてる?」見つめられたことに気がついた誠が言う。智子は首を振り「一枚でかまずに二枚使いなさいよ」と答える。
「一枚で十分だよ」そう言いながらティッシュをゴミ箱に入れ、洗面所に歩いていった。
 無神経なんだからと智子は思った。どうしてこの人と結婚しようと思ったのか、それは一時の気の迷いだったのか。思い出そうとしたけど思い出せなかった。もうすっかり忘れてしまっていた。でも一緒にいるのが当たり前になっている。
 誠と一緒に買い物に行くけど、昔と違ってあまり楽しくはない。愛情が冷めたとかそういうことではない。スーパーに行けば子供を連れた夫婦が買い物をしているのを見かける。もう慣れたとはいえ、子連れを見ると寂しくなる。誠は気にしない素振りをみせているが、それでも子連れの親子を見かけると誠の視線はしばらくの間、子連れの親子を追いかける。智子に悟られないようにだが、智子もまた誠の視線に寄り添うように子連れの親子を追いかける。二つの視線は平行にまっすぐ進んでいく。でも、二人の気持ちは交わっているのだろう。そんなとき、子宮に腫瘍がみつかりましたと言った医者の言葉が智子の脳裏に蘇る。良性であってほしいという願いはかなわなかった。
 誠が戻ってきた。
 どん、と誠の肩に頭をぶつける。一緒にいてどきどきすることもないが、見えないところに行ってしまうとすこし寂しくなる。離れていた時間だけ、そばにいる時間を感じたかった。

 最近、物忘れが多くなったと智子は感じるようになった。
「わたしがいろんなことを忘れても、まこちゃん、あなたがわたしの代わりに覚えていてね」
「全部覚えてるから大丈夫だよ」
「ほんとに。いつもいいかげんなんだから。じゃあ去年の今日のこと覚えてる?」
「去年は……朝食は食パン二枚トーストにしてマーガリンを塗って食べた。前の日のシチューの残りをレンジで温めて。お昼は……」
「そんなことじゃないの」
「夜は昨日結婚発表した俳優が主演したドラマを一緒に見た。智子は面白いって言ってたけど、僕はあまり面白いとは思わなかったなあ。視聴率も悪かったし」
「あ、思い出した。あれってもう一年前のことだったのね」智子はテーブルの上に置いてあった本を手に取ると読み始めた。読めない漢字があった。
「ねえ、これなんて読むの」智子は誠に聞いた。誠が読み方を答えたが、どんな意味なのかわからなかった。意味を尋ねるとわからないと答える。「まこちゃんってなんにも知らないのね」いつまでたっても頼りになりそうでならないなあ。
 どん、と誠の肩に頭をぶつける。もう一度、どん。誠は智子を受け止めてくれる。

 どうすればいいのかわからなかった。
「おかあさん」智子は自分を助けてくれる人を呼ぶ。けれどその人は来ない。トイレという言葉が浮かんだがどうすればいいのかわからなかった。しばらくしてあせる気持ちはなくなった。その代わりに下半身にまとわりつく不快感が襲ってきた。
「おかあさん」
「だいじょうぶだよ、気にしないで」
 振り返ると誠がバケツを持って近づいてきた。いつもとは違う顔をしている。怖くなって一歩後ずさると足元からぴちゃっと音がした。そこで智子は粗相してしまったのだと気がついた。前にもこんな表情をした誠の顔を見た覚えがある。忘れていた記憶が蘇った。あのときは……「ごめんなさい。怒らないで」とっさに声が出る。
 言い争いになって誠にぶたれたことを思い出した。唯一誠に暴力を振るわれた記憶だった。楽しいことは忘れてしまうのに、嫌なことだけはすぐに思い出せた。
「大丈夫だよ、そろそろワックスをかけなければいけないなと思ってたとこだったから、ちょうどよかったよ。一石二鳥だ」雑巾を絞りながら誠は言った。
 智子はソファーに座って誠の姿を見続けていた。ギシッ、ギシッ、智子が体を揺らすたびにソファーが音を鳴らす。智子の半分くらいの年齢のソファーはまだ二人の重さを支えていた。この人はわたしを支えてくれるだろうか。智子はそんなことをぼんやりと考えた。

「わたしの記憶を返してよ」智子は誠の腕をつかんでそう言った。誠は腕をつかまれたまま、智子の視線を受け止める。
「あんたがわたしの記憶を盗んでいったんだろ。わたしが前に、わたしの代わりに覚えていてって言ったから」つかんだ腕を揺らす。揺らせば誠の体から自分の記憶が飛び出して来るかのように。
 誠は智子を包み込むように抱きかかえようと背中に手をまわすが、智子は体をよじってその手を振り払った。そしてまた誠の腕を揺らす。しばらくして誠の腕を揺らしていた腕が止まった。つかんでいた手が離れると「ごめんね」小さな声で智子は謝った。つかの間の平穏が訪れたが、智子はいまが平穏であることには気づかなかった。

「具合はどうですか」
 知らない男の人が聞いてきた。
 具合……
 具合……
 具合……、どうなんだろう。具合って何。他にも何か聞いてきたけどよくわからない。ここはどこなんだろう。ベッドがたくさんあって、人が寝ている。そうだ、ここは病院だ。時間をかけて智子は思い出した。日常生活も困難なほど認知が衰えた自分がいまここにいることを。先生はいつの間にか隣のベッドにいる人に話しかけていた。
「山本さん、体温測りますね。はい、これを脇の下に挟んでください」
「十時のニュースの時間です。今朝未明……」
「あんたのとこはいいねえ、息子さんがいつも会いにきてくれるじゃない。うちなんて全然よ」
「今日のお昼もおかゆなの? あたしはふつうのご飯が食べたいのよ」
 お腹がいっぱいになると眠くなる。外は晴れていて部屋のなかもあかるく暖かい。窓の外に山が見える。山は半分緑で、残りの半分は削れている。だれかがスプーンで削り取ったのだろう。岩山を見ているうちにいつの間にか眠り込んでしまった。
「散歩の時間ですよ」ふいに起こされた。「吉岡さん、ちょうどよかった。ご家族が面会に見えられたわ」
 智子は看護師の顔をぽかんと見つめている。
「よかったわね。智子さん。起きれるかしら」
 ゆっくりと上体を起こすと床に足をおろした。
 看護師につれられて部屋をでて歩いていく。どこに行くのだろうと智子は考える。ここはどこだろう。あまり歩きたくはないなと思う。床の四角いマス目を見ながら自分の足をそのマス目に入るように歩いてみた。右足はピッタリと枠のなかに入った。こんどは左足。左足がすこしはみ出てしまった。すこしだけだから大丈夫だ。次は右足の番だ。さっきよりもはみ出てしまった。だれも見ていないからセーフだ。
「智子さん、こっちよ」
 細長い場所で誠が立っていたが、智子はだれなのかわからない。看護師は智子をそこに残して病棟へ戻っていった。誠は智子と向かい合わせで座った。見知らぬ男と二人っきりになった智子は居心地悪そうになる。誠の後ろの窓からは青空が見える。智子は青空に浮かぶ月を眺めた。
「今日はちょっと暖かいね」
 智子はだまったまま窓の外を見ている。
「誠だよ」
「このあいだよりもちょっとふっくらしたね」
「……」
「……」
「……」
 誠は黙り込んでしまった。智子の顔を見つめ続けているがふたりの視線は交わることはなかった。
 すこし開け放たれた窓から風が吹き込んできた。まだ風は冷たい。風に吹かれて誠の前髪が揺れる。ガタンゴトンガタンゴトン、遠くで電車の走る音が聞こえてくる。病棟からだれかの笑い声が聞こえてくる。パタパタと走る足音が聞こえる。けれど智子のまわりは静かだった。窓の外の青空に一筋の白い雲が伸びていく。一直線に。やがてその線は窓の端にくっついた。いつの間にか誠が智子の隣に座っていた。誠は智子が見ていた窓の向こうを見つめている。智子は誠の顔を見つめたが誠は気がついていない。
 誠の横顔をみていると吸い寄せられるように……どん、と智子は頭を誠にぶつけた。どん。もう一度ぶつける。どん。もう一度。





終り


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