しほかぜさえわたる
貞久萬
寮代わりの宿舎を出ると、治郎の鼻腔をねっとりした空気がくすぐった。この季節に吹く潮風がからだにまとわりつく。駐輪場においてある自転車を引き出すと軽く前後に動かしてブレーキの確認をする。ステンレス製だがこの島では錆やすい。潮風のひどい時期は一晩であちらこちらに錆がでる。ブレーキワイヤーなどは寝る前にオイルを注油しておいてやらないと錆びついてブレーキを握った瞬間に切れてしまうこともある。
今日の現場は事務所とは正反対の方向だった。事務所には現場に直行すると言ってある。着替えと昼飯を入れたバッグを背負うと薄曇りの空の下、自転車を漕ぎ始めた。この島は全周17キロ、イカの甲のような形をした、貝楼諸島のなかでも比較的小さな島だ。
ペダルを漕ぐと後輪の回転を利用して動く安全筒がガチャリコン、ガチャリキンと鳴り出す。最初のころはうるせーなと思ったがそれも慣れてしまった。ねっとりとした潮風がからだから引き剥がれていく。ペダルも軽くなる。潮風を置き去るかのように自転車のスピードも上がるが、吹く風はどこまでいっても潮風だ。
「つづら街道の安田婆さん、糠望楼のてっぺんで見つかったらしいよ」治郎が柔砂利機を組み立てていると健吾が話しかけてきた。
「そうか」
「でも糠望楼の千八百メートルもあるはしごを婆さん一人で降りてこれるわけねえから、与一が登っていっておぶさって降りてきたっちゅうはなしだ」
「与一も大変だったな」
「さすがの与一も金輪際ごめんだと、設計部に怒鳴り込んだらしい」
「じゃあここが終わったら穴塞ぎになるんだろうな」
「ああ、やりたかねえけどな穴塞ぎは」
「使うのは微人だろ」
「初めて見た微人が俺の初恋の人そっくりだったんだよ」
「前に聞いた。そっくりだといっても微人は微人だ。人間じゃねえ。実らなかった初恋だったんだからちょうどよかっただろ。埋めちゃったしな」
「おれもあと五年もすりゃあんたのような心境になっちまうんだろうな」ため息をつく。
「この潮風が錆びさせてくれるよ、さて始めよう」治郎は観測器をセットする。
「南経34.156度、プラス補正3。東緯134.427度、マイナス補正14。座標点確定。空間固定開始」
「あいよ、固定完了」
「柔砂利注入」
「柔砂利注入開始」
健吾が柔砂利機の転送ボタンを押すと、どろりとした柔砂利が固定空間に流れ始める。島の南東、オサラギ家二階の子供部屋軒先にコインランドリーが形作られていく。こんなところにコインランドリーが必要な理由は設計部の人間以外、誰も知らない。オサラギ家の人々も自分の家にそんなものが作られないといけない理由を知らされることはない。しかし取り壊されるよりも増築のほうがましだろう。
「じゃ、護符塗装の準備をしとくか」治郎は健吾に指示する。
「来週なんだけど、つづら街道と冬至街道を結ぶ道を潰して幅1メートル長さ300メートルの男児便所を作ることになった」作業を終えて事務所に戻ると図面を引いていた設計部の葉月が話しかけてきた。
「は? 道がなくなるってことか」昨日届いたばかりの月刊貝楼諸島の最新号をパラパラめくりながら治郎は聞きかえす。
「そうだ。ここのところ短納期の増築が多かったから設計どおりいかず、誤差が大きくて調整せざるを得なくなった」葉月は図面を引きながら答える。
「あそこが通れなくなると、つづら街道に行こうとしたときに大きく迂回しなけりゃならないだろ」今月号はこの島の小特集だった。治郎は葉月の机のはしに座りながらページをめくる。
「設計部と観測部で調整してみたんだが、現状の問題を解決するためにはこれしかないという結論になった」
「便所の上を道にすることはできないのか」貝楼諸島のウィンチェスター・ミステリー・ハウス。特集の見出しはそんなタイトルだった。諸島の外の世界でもこの島みたいなものがあるのか、と治郎は思った。
「上を道にしたら便所じゃなくなる」
爆発音とともに地面がゆれた。窓の向こうで火柱が見えた。
「また、パンジャンドラムかい」葉月は図面を引きながら聞いてきた。
「ああ、そのようだ。偽彼岸のほうだ」
「だったら、ほっといても大丈夫だろう。あそこは対策が施されているから」
パンジャンドラムはロケット推進で海面を回転しながらこの島に向かってくる。これが地雷でなければ問題はなかったが、なにかにぶつかった瞬間爆裂する。彼岸からやってくるというものもいれば沂島からやってくるというものもいる。あれはマニ車だという奴もいるが、マニ車は爆裂などしないだろう。それとも極楽浄土に連れて行ってくれるのか。上陸する海岸に設計部が歪みを作ってくれるまでは被害は大きかった。歪みができた後は偽彼岸の片隅でパンジャンドラムは爆発してくれるようになった。設計部の計算によると歪みは56億7千万年間は保つらしい。56億7千万年過ぎるとどうなるか知ってるかと葉月が聞いてきたことがあった。治郎は聞こえないふりをしたが、愛想がないくせに根は話したがりの葉月は勝手に喋り始める。
「境界が崩れて溢れ始めるんだよ」
「溢れ出てしまって大丈夫なのか」
「大丈夫じゃないよ。多分世界は滅ぶね」その前にこの世界が滅んでるんじゃないかという気もする。
「56億7千万年間は偽彼岸はそのままだよ、この島が沈もうが、この世界がどうなろうとも偽彼岸はあの形のまま残るんだ。完璧だろ」葉月は自慢げに言った。再び爆発音がした。
事務所を出ると日が暮れ始めていた。宿舎に向かう道を自転車で漕いでいると「ヤンノカコラー」と耳元で甲高い声がした。「カカッテコイヤー」続けて声がした。肩を見ると啖呵虫が止まっていた。安全筒を動かしていなかった事に気がついた。啖呵虫の鳴く季節か。誰もいないところで良かったと思った。年に数回は啖呵虫の鳴き声を誤解して喧嘩が始まることがある。新参者の場合は引っかかりやすい。人差し指で弾くと啖呵虫は回転しながら草むらに消えていった。「ヤンノカコラー」「カカッテコイヤー」鳴き声が追いかけてくる。
「えいせ、えいせ、えーら」今度は遠くのほうで掛け声が聞こえてきた。そういえば今日は微人祭だった。祭りなら屋台が出ている。去年飲んだ椰子酒がうまかったから一杯ひっかけていこうかと治郎は思った。
「えいせ、えいせ、えーら。ハンミョウガンゲン、セイサイサイ」
会場に近づくにつれて呪禁の声が大きくなっていく。あたりにチョコレートの匂いが漂い始める。微人祭は微人の鎮魂祭だ。年に一度、荒ぶる微人を鎮めるために呪禁を唱える。呪禁は微人の生体力を絞り出す。絞り出された生体力は大気中の水分を吸収してチョコレートの匂いのする液体と化し護符塗装の原料となる。稀にチョコレートの甘い匂いに惑わされ生体力を飲んでしまう奴がいる。飲んだ人間は次の日からやけに神妙そうな顔つきをしてまじめに働き出す。それだけだったが、それを見るたびに治郎は死んでも飲んでたまるかと思う。
お目当ての椰子酒は売り切れてしまっていた。代わりにチコリ酒をすすめられる。一口飲むとけっこうまい。チコリ酒のあてにはチョコレートがぴったりだ、と二杯目を注ぎながら屋台のおやじが言った。
ほろ酔い気分で宿舎に帰ると、降ろしたバッグから月間貝楼諸島が見えた。うっかり持ってきてしまったようだ。いつもは軽く目を通すだけだったが、酔いも手伝ってちょっと読んでみることにした。巻頭に短い話が載っていた。
『しほかぜさえわたる』
風が吹いてきた。ストランドビーストが風を食べる。風を受けてビーストの風車(口)がゆっくりと回り始め、口(風車)は風を回転運動に変換する。口の軸についている歯車が胴体の主軸を回転させていく。軸に取り付けられたクランクが動き出すとクランクについている別の軸のクランクが連動して動き出し、そのクランクの回転につながってムカデのようなたくさんの脚がゆっくりと動き出す。風を食べたストランドビーストは眠りから覚め、砂の上を歩き始める。
ストランドビーストのなめらかな動きは見ていて飽きない。どの脚も他の脚と重なることなくつぎつぎと一歩先を目指して、振り上げては降ろし、振り上げては降ろしとストランドビーストの体を前進させていく。
動き出したストランドビーストはまっすぐ海へと向かっていく。脚が水の中に入っていく。胴体からぶら下がった浮力計が浮力を感知するとビーストは180度方向転換し、幅広のショベルが下がってくる。ショベルは水中の砂をすくいながら来た道を戻り始める。ショベルがすくいとった砂は歩き出すとともに少しづつ零れ落ちていく。やがてショベルの砂が無くなると、再び方向転換をして海へと向かう。そのくりかえしをしてストランドビーストは浸食された砂浜を復元する。
海風が髪にまとわりつく。ストランドビーストは風を食べるが、わたしの髪は食べない。そろそろ髪を切ろうか。
チョキン。はらりと髪が落ちた。
髪を切ってもらうと昔のことを思い出す。今は島の床屋で切ってもらうが、昔は父さんがわたしの髪を切ってくれていた。
「父さんはストランドビーストを生き物のように言ってるけど、生き物じゃないじゃん」わたしは髪を切っている父さんに言う。
「ふーむ。じゃあお前はどこが生き物じゃないと思うんだい」
「うーん……。自分の考えで動いていないじゃん」
「そうか、自分の考えで動かないと生き物じゃないのか。それじゃあ、自分の考えというのは体のどこにあると思う」
「そんなの簡単。脳みそだよ」
「アメーバーみたいなのは脳みそがないけれども、あれは生き物じゃないということかな」
「……いじわる」
「ほかの条件を考えてみようか」
「……生き物は物を食べる」
「ストランドビーストは風を食べているんだよ」
だんだんとわけがわからなくなってくる。そもそも生き物の定義ってなんだろう。「あ、子供を作る」
「お、いいところに気がついたな。たしかにストランドビーストは子供を作らないな。しかし、子供を作らないんだったら、なぜストランドビーストの数は増えているんだ?」
「それは父さんたちが作っているからじゃないか」
「そうだ。父さんたちが新しいストランドビーストを作っている。ということはストランドビーストは子供を作っているのと同じじゃないのかな。ストランドビーストは人間と共生をしているんだよ。だからストランドビーストは人間から恩恵をうけているし、人間もまたストランドビーストから恩恵をうけている」
「月に一度島にやってくる船も生きているの?」わたしが質問すると父さんは少し悲しそうな顔になった「あの船は、生きているとはいえないかな。もう、あんな大きな船をつくることはできないんだ」
「じゃあ、あの船はいつかは死んじゃうの?」
「エンジンが壊れてしまったら、たぶんもう無理だろう。燃料が先に尽きる可能性もあるが、重油の使い道もなくなりつつあるからなあ」
鏡越しにストランドビーストの風車が見えた。「あ!」っと声が出た。一瞬で現実に引き戻される。「ん、どうした?」チョキんと前髪が切り落とされる。「あ!」鏡に写った前髪の残りを見てまた声がでる。「おじさん、ちょっと切りすぎ」あのストランドビーストは麦畑を耕すのだろう。もうそんな時期なのかと思った。
髪を切り終えると、外はさらに暑かった。山頂の受電アンテナ塔がキラキラと光っている。一週間前に島の住人総出で受電アンテナ塔の錆落としをしたおかげだ。錆落としは大変な作業だけれども、それは年に一度なのでお祭りみたいなものだ。もうなんの役にもたっていないのだから壊してしまえばいいのにとおもうのだが、壊す方法は誰も知らない。
昔は空から電気が送られてきたという。受電アンテナはその電気を受け取る。空のずっと上に電気を作る機械があったということだが、死んでしまった。
ヒトがこのまま滅んでいったとしても、ストランドビーストたちはすこしだけ長く生き延びる。どのくらいかはわからない。ビーストたちの体もすこしずつ寿命を迎えていく。それでもいいかと思う。ヒトの滅んだ世界で、ストランドビーストが風を食らう世界がすこしだけ続いて、それはヒトを継ぐ生き物で、ヒトはヒトを継ぐ生き物を生み出すことができたのだ。たとえそれがほんのわずかな時間であっても。
バサッ、月間貝楼諸島が治郎の体を滑り落ちていく。やがて治郎はいびきをかき始めた。
(了)
島アンソロジー「貝楼諸島より」応募作品