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いんでくる

 夕食を食べ終わると薬の時間になる。寿々子は錠剤をもらうと看護師のまえで口に入れ、コップの水でごっくんと飲みこんだ。軽くげっぷをしたあとで口を大きくあけ、薬が残っていないことをみせる。看護師がにっこりとうなずくと、病棟を仕切る扉へと寿々子はゆっくりあるいていった。リノリウムの床のうえで足音はちいさな音を立てていく。気が急いても若いころのように速くはあるけない。薬をのんだあとは特にそうだった。足元も頭もおぼつかなくなる。
 数時間もたてば寝るまえの薬の時間になる。寝るまえの薬はさっき飲んだ薬とはちがい、口のなかに入れたとたん、しゅっと溶けて消えてしまう。水を飲む必要もない。けれど寿々子はそのあとで水を二杯飲む。そのせいで夜中におきておしっこにいく。
 鉄の扉にぺたり、耳と頬をつけると冷たさと静けさが伝わってきた。寿々子はゆっくりと目をとじる。目をとじて、忘れてしまった記憶をさがしはじめる。
 寿々子を見つめておびえる顔が浮かんできた。姑の顔だった。
 声が聞こえてきた。「寿々子は犬神にとりつかれてしもうた」おびえる顔が言う。たすけてと夫をさがす。記憶のなかで夫をさがす。夫のうしろ姿がみえた。でもいくら叫んでも振りかえってくれない。
 やがて十八時の音楽浴がはじまる。記憶のなかの寿々子は流れる音を浴びるために服を脱ぎはじめた。
「寿々子さん、こんなところで脱いじゃだめよ。着替えるのなら病室やないと」上着を脱ぎ、ズボンをおろしはじめたところで看護師にそれを引きあげさせられた。着替えるのじゃのうて音楽浴するんやと話しても、わかってもらえなかった。脱いだ服を着させられて寿々子は病室に連れていかれる。
 扉の静かな冷たさが人肌にぬくもりはじめると現実にもどされた。寿々子は目を開く。とうのむかしに十八時になっても音楽浴がはじまることもなくなった。お昼の薬がなくなったのもそのあたりからだった。薬は飲むと気持ちが抑えられてしまうので嫌いだった。楽しいことがあっても、ワクワクしそうになる手前で引きもどされてしまう。一度飲んだふりをしてごまかしたことがあった。隠した薬はすぐに見つけられてしまい、それ以降は口に入れたあと、水でごっくんとして、そして看護師に口のなかを確認させられるようになった。飲まなければいけない薬の数は少しずつ減ったが、もうワクワクすることはなくなった。寝るまえに飲む薬と同じでワクワクは寿々子の頭に乗っかったとたんにしゅっと消えてしまう。冷たい扉に顔をつけて目を閉じるけれどワクワクは見つからない。
 寿々子は扉からからだをはなした。扉には小さな窓がついている。その窓を覗くと渡り廊下の大きな窓が見える。大きな窓の向こうに真っ暗が見えた。お昼を食べたあとだったら山が見える。あの山の向こうに寿々子の家がある。昼間は山が邪魔をして見えないが、夜になれば真っ暗で山は見えなくなる。だから家も見えるのではないかと窓の向こうを眺めるけれど、窓に映るのはあっちこっちたるんだ、皺のある自分の顔だけだった。うすぼんやりと映る自分の顔は嫌いじゃなかった。けれど洗面室の鏡ははっきりと寿々子の顔を映す。だから歯を磨くとき、寿々子は鏡を見ずに目をつぶって磨く。今日も家は見えない。
 うちんく、いんでくる。父親が面会に来るたびに寿々子は自分の家に帰ると言う。
「すぐに家に帰れるけん、ちっとの我慢じゃ」ここに来なければいけなくなったとき、ここにやって来たとき、そして寿々子に会いに来るたびに寿々子の父、正一はそう言った。しかし外出をしたことはあるが、家に帰る日はまだやってこない。
 いんでくる。いんでくる。何回も言っているうちに、おはようとか、こんにちはとか、そんな挨拶と変わらないようになってしまった。
「向こうの家から電話があった。有名なお祓い師がいるから紹介するっちゅうてきた。お前のこと犬神憑きだっちゅうて離縁したくせにまだときどき言ってくる。結婚するときゃ、大事にするちゅうとったのに、お前がこうなったときには、犬神が憑いたちゅうて放り出して、あげくのはてにゃわしらを犬神すじとかいいくさりおって」寿々子の嫁ぎ先の話題になるたびに正一は向こうの家のことをくそみそに言う。そしてひととおり文句をいい終えると憑き物が落ちたように穏やかな顔になり、ほなまた来るでなといって帰っていく。まだ鏡をみてもたるみのなかったころの話だ。消灯の時間が近づいてくる。
 毎月第二火曜日の午前は外出の日だ。出かけるときもあれば出かけないときもある。
「それじゃあ、お昼までに帰ってきてくださいね」看護師のサワイさんはポケットから鍵を取り出すと、ガチャガチャと扉を開けた。寿々子は扉をくぐりぬける。症状が安定している寿々子は一人っきりでの外出も許されている。「いってらっしゃい。具合が悪くなったら早めに帰ってきてね」サワイさんが寿々子の背中に声をかける。「今年、2020年……」テレビのアナウンサーの声が聞こえる。バタン、ガチャガチャ。「東京オリンピックは大会二日目を迎えて……」扉が閉まっても病棟のなかの声は寿々子の耳に入ってくる。サワイさんに扉を開けてもらわなくても声だけは出入り自由だった。
 一階の受付でタクシーを呼んでもらう。待合室の椅子に座っていると眠くなってくる。ぞわぞわとしはじめたので立ち上がって受付の周りをあるき始める。「寿々子さん、タクシーが来たわよ」玄関のほうを見ると車が止まっていて、車から降りた運転手がこちらにやってくるのが見えた。
 タクシーに乗り込むと、行き先も言っていないのに動きだした。寿々子を乗せるのはいつも決まった人だった。寿々子がどこにいくのか知っているし、寿々子がそれ以外のところにいこうとはしないことも知っている。
 車にゆられて五分ほどすぎると小鳴門橋が見えてきた。橋を渡ると四国本土だ。寿々子がまだ小さかったころは橋を渡るのに百円ひつようだった。左にはもうひとつ大きな橋が見える。大きな橋は寿々子のうえにまたいでくる。寿々子を乗せたタクシーはその橋の下をくぐっていく。少しのあいだ寄り添うが、寿々子の道はゆっくりとカーブして、名残惜しむかのように上の大きな橋から離れていく。
 父親の正一もこの橋を渡って会いにくる。寿々子と正一もこのふたつの橋と同じ。寄り添ったかと思うと離れてしまう。いっしょにいる時間は短い。けれど名残惜しんでいるのかはわからない。
 ぬくうなったり寒うなったり、正一は会うたびにそんな季節の話をするが、扉のこちら側にいる寿々子にはあまりぴんとこなかった。外出できるようになって季節の変化を感じ取り、初めて父親の言っていることがわかるようになった。扉のこちら側はいつも穏やかで暖かい。
 病院のある大毛島の山を右手に望みながらタクシーは進んでいく。しばらくするといつものスーパーマーケットが見える。タクシーはゆっくりと駐車場に入ると店の入り口近くで止まった。寿々子はお金を払うとタクシーを降りて店のなかに入っていく。野菜売り場、魚介売り場、肉売り場を抜けて、日用雑貨を売っている場所へとあるいていく。そこでいくつかの日用品をかごに入れると、病室のみんなへのお土産を買うために、甘いものを売っている場所へと足を運んだ。まんじゅう、ようかん、カステラ、いも餅が並んでいた。寿々子はいも餅の三個入りのパックを無造作に二個、かごに入れる。寿々子がちいさかったころ、正一もこれをよく買ってきた。
「お餅が食いたいもんやねえ」今年のお正月に同室の節子さんがそう言っていた。去年もその前も、病院でお餅がだされなくなってから毎年だ。節子さんはずいぶん前にお雑煮のお餅をのどに詰まらせてあわやという思いをしたことは忘れてしまっている。節子さんは寿々子よりも五つ年下だが、五年長く入院している。そばで配膳していたサワイさんは「ごめんね」とちいさく言葉をもらす。節子さんは寿々子と違って付き添いの人と一緒でなければ外出することができない。
 いも餅を見ながら節子さんの喜ぶ顔を思い浮かべる。「寿々子、いも餅食べんかい」父親の声を思い出す。もう一個カゴに入れる。
 レジで清算をすまして公衆電話でタクシーを呼ぶ。店の外に出てベンチに座っているとタクシーがやってきた。帰りはいつも違う運転手だ。後部座席のドアが開くと車のなかに乗り込み、行き先を告げた。寿々子は入院してからいろいろなものを忘れていった。忘れたかったものも、忘れたくなかったものも、忘れてしまったことすらもなんだかわからないうちに忘れていったが、寿々子が告げた行き先は忘れることなく、寿々子の頭のなかにずっと残り続けていた場所だ。
 いんでくる。
 車は寿々子の知らぬ景色を走りつづける。走りつづける。脇道に入ったところで記憶にある景色が見えてきた。
 寿々子のなかでワクワクが大きくなり始める。
 右手に家が二軒立っている。一軒は記憶にあるが、もう一軒は記憶になかった。その家の向こうに大きな木が一本立っていたはずなのに木はみえない。生垣のあった場所はコンクリートのブロック塀が続いている。寿々子の顔がしだいに強張ってくる。ここでいいです、運転手に言うと車が停まる。
 タクシーを降りて自分の足であるき始めると、からだが勝手に進んでいく。足のあゆみに身を任せていくと寿々子の顔から強張りが消えた。両隣の家は記憶とはちがっていたが、目の前の家は記憶にある家とまったく同じ家だった。門をくぐり玄関のまえに立つと、トントントン。扉をたたく。
「はいはい、ちっと待って、今行くけん」扉の向こうから声が聞こえる。
 扉を開けて男が出てきた。そして寿々子の顔をみて驚く。「寿々子やないか」寿々子の父、正一が言った。
「また帰ってきちまったか。しばらくはいけたけんど……まあしゃあないわな。わしも歳なのか体もよう動かんようになって、あんまり面会にもいったれんかったしなあ」
 寿々子は困った顔をした父親をじっとみつめる。正一は寿々子の視線を少しずらした。寿々子はその顔を見つめる。
「病院にばれんうちに戻ったほうがええじゃろ。送ってくけん、ちっと待ってろ寿々子」
 寿々子はしゃがみこむと、持っていた買いもの袋を広げて右手を突っ込み、ガサゴソと何かをさがす。そしていも餅のパックを取り出して父ちゃん食べろと差し出した。
「いも餅やないか、うまそうやな、ええのかもらって。自分の分はあるのか」
 差し出した手よりも皺の多い手にいも餅を渡しながら、タクシーよんでつかい、と寿々子は言った。
「タクシーやのうて、わしが送ってくけん」
 寿々子は首を左右に振る。
「……わかった。じゃあタクシーよぶから」そう言うと正一は家の奥に入っていった。「あー、タクシー一台お願いします。場所は……」父親の声が玄関まで聞こえてくる。
 寿々子は山をさがす。玄関をでて庭先まであるいてみたがどの方向を向いても山は見えなかった。山の向こうにうちんくがある。
「タクシー呼んだから、すぐに来るけん」正一が玄関を出て寿々子の隣にやってきた。「なにを探しよる」寿々子に聞いた。寿々子は黙ったまま首を振る。
 車の音が近づいてきた。寿々子は庭を出て門の外まで歩いていく。寿々子の目のまえでタクシーが止まった。後部座席のドアが開いて寿々子が乗り込むと「ドアしめますね」運転手が言う。ドアが閉まる。バタン。閉じられたドアの窓を見る。この窓は寿々子の顔を映し出さない。窓の向こうで正一が心配そうな表情で立っている。父ちゃん、歳とったな。寿々子は父親に向かって言った。
「ほな、いんでくる」寿々子が言う。
 正一の顔がくしゃくしゃになった。「すまんなあ、寿々子。引き取ってやれんで」「どちらまで行かれます?」かぶさるように運転手が聞いてきた。
 寿々子は海辺の病院の名前を告げる。
「おそうなったんけん、いんでくるんけ。うちんく、いんでくる」そして寿々子はもう一度海辺の病院の名前を言う。
 車が動きだす。寿々子はだまって前方を見続けている。ここからではまだ見えない、やがて見えてくるはずの山を見つめ続けている。山の向こうに自分の家がある。(了)


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