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空白

 黄色い小さな花が泡立ち始めると肌寒さも日常となる。外にでるのにも一枚羽織るものがほしくなる。子供のころは喘息原因になるといって嫌われていた花だが実際はそうではない。しかし、一度広まってしまった誤解が訂正されるのはむずかしい。上着を羽織りながら靴を履こうとしたところで、玄関先においてある電話がなる。
「もしもし」 
 受話器を耳にあてると妻の声がきこえる。自分の財布のなかに入っているお金を今回の入院費に使ってほしいという。気持ちはありがたいが使えるわけがない。あと、離婚届を書いてくれたら署名もするという。そんなことはするつもりもない。薬の副作用で胃がやられてしまっていて食べることができないの、受話器の向こうで妻はいう。胃がやられてしまったということはどこかしら胃に不調を感じているのだろうか。だったらまずは、看護師にそのことを伝えればいいのだが、病院を信用していない妻は看護師にそんなことはいわないだろう。もちろん主治医にもだ。
 痛みがあるのか、それとも不快感があるのか。本当に胃がやられてしまっているのならばわたしのほうから主治医に伝えなければならない。どういう状態なのか詳しく聞き出そうとしたところで電話が切れてしまった。病院の公衆電話からなので一方通行の会話。それでもこちらから病院に電話をかけなおそうかと考えたところで思い出す。食事を食べなくなった妻が入院してまだ二日目。薬物治療が始まってまだ間もない。そしてお互い一人ぼっちの生活をしている。
 妻の財布はテーブルの上に置きっぱなしのままになっている。引き出しにしまっておかなくてはと思い、妻の部屋に行く。いまの妻の部屋はなにも置かれていない場所が目につく。昔はもっといろいろなもので満ちていたというのに。
 いまにして思えば妻がアルバムとかいろいろなものを整理したのは入院してわたしと離れ離れになってしまい、ひとり家に残ったわたしが妻の物を整理しなければいけなくなると考えたからなのかもしれない。残されたわたしに迷惑をかけないようにと。
 空白の場所を見ていると、思い出の品は少しは残してあげたい気持ちにかられる。
 妻から失われてしまったその空白の場所を、どうやったら埋めてあげることができるのだろうと考える。
 明日が不燃ごみの日だったので思い切ってフライパンを買い替えることにする。二年ぐらいもてばよい使い捨てのつもりなので高価なやつを買うつもりはない。これで卵や餃子がこびりつかなくてすむ。食べることができれば見た目は気にしないが、こびりつくと後片付けが嫌になる。
 使用済みのフライパンを捨てるのでほかにも不燃ごみがあるかとおもい、不燃ごみをためているバケツを覗き込んだらシーサーの置物が捨てられているのに気がつく。まだ若かったころに沖縄出張のおみやげで買ってきた手のひらに乗るくらいの小さな対のシーサーの置物。前回妻が大量に自分の持ち物を処分したときには捨てられなかったが、今回はとうとう捨てられたようだ。わたしが買ったお土産だということも忘れ去ってしまっているのかもしれない。妻の思い出のなかから自分の存在が忘れ去られてしまっているかのようで、少しだけ悲しくなる。バケツから対のシーサーを拾い上げると本棚の隅に並べる。口をへの字に曲げたものを最初に置き、そのとなりにニヤリと笑っているものを置く。こっちが私、と笑っているほうを妻は指をさす。そんな思い出とともにわたしが妻の代わりに残しとくことにする。どうせそれさえも、わたしが忘れてしまうまでのわずかな時間のことにすぎない。
 流行り病のおかげで一人ぼっちになってしまった。
 夕食を食べ終わったあと、だるくてめまいがすると言いソファーに倒れ込んだとおもったら、そこからあっという間だった。最後に話したのは救急車を降りてすぐ、救急処置室に入る手前だった。そのまま面会謝絶となり、ようやく面会できるとおもったら妻はもうなにも話しかけてはこなかった。目をつむったまま、こちらをみようともせず、息すらもしていなかった。はじめて違う病気で入院したというのにね。
 あっというまに妻の時間は流れていってしまったので、悲しみはまだやってこない。きっと遅刻しているのだろう。いつも遅刻ばかりしていた君らしい。

 でも、そろそろやってきそうな気配がした。

 玄関先においてある電話がなる。
 たぶん妻からだろう。そろそろ寒くなってきたから冬用の服を持ってきてほしいという電話なのかもしれない。急いで立ち上がろうとしてよろけそうになり、とっさに壁に手をつく。気を取りなおしてゆっくりと玄関に歩いていく。居間の開け放たれた窓のむこうで、ビニールの人形のような鳴き声を発しながら一羽の鳥が飛び立っていくのがみえる。
 受話器を取ろうとしたところで電話は鳴りやみ、静かになる。
「旭川にはもうじき初雪が降ります」つけっぱなしのテレビからはアナウンサーがしゃべっている。壁にかかった鏡にうつる顔にもまっ白な雪が積もっている。父も祖父も積もっていた。頭の雪はいつか全てを白く埋め尽くしてくれるのだろうか。そこに横たわるわたしを。テレビから流れる音だけが空白を埋め続けてくれる。

<了>

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