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(備忘録)漢字という魔法

小さい頃、漢字に「表情」を見ていた。

小学校1年生のこくごの教科書に出てくる「けんかした山」という物語。そこに出てくる漢字を学んだのが最初だ。山。一。二。山。火。などなど。

書き取り練習をしながら、漢字には表情がある、と思った。
絵文字みたいに、この子は笑っていて、この子はおすまし顔で、ああ、ちょっと崩して書くと臍を曲げて拗ねたような顔になってしまう。そんなことを思いながら書いていたから、繰り返しの書き取りは苦ではなかった。それぞれの漢字にしっくりくる、「これ」という表情が見つかると、今度はそれを金太郎飴のように大量生産することを目指して黙々と書いた。

車を見て「顔っぽい」と思う経験は結構多くの人にあるだろう。それと同じだったのだと思う。

そういうわけでラッキーなことに大抵の書き取りや書字は好きだった。小学校2年生で、近所の習字教室に通いたいとせがんで始めてからも、それは続いた。

毛筆、ひいては「書」についての話は、原研哉さんが『白』の中で書いている論が面白い。書をかくことは、白い半紙に黒々と、鮮烈に、不可逆の失敗を刻み続ける経験だと。当時はそんなことを考えてもなかったが、あの経験は貴重だったのだろうなと今になって思う。習字教室では最低6枚、のぞめば納得がいくまで何回も書かせてもらえた。次に書くときは縦画を長く。払いをうまく。もっとうまく。お手本の文字の凛々しい表情に執着し、自分の拙い線とその理想を高速で反復横跳びしながら、これじゃない、これじゃないと書き続ける。

そうだ、ずっと「これじゃない」と思いながら書いていたのかもしれない。習字は8年ほど続けたが、その間ずっと「これじゃない」と思っていた。なんかの展覧会で大賞を取ったときも。満足して書けたものなんて、1枚でもあったんだろうか。

今学期は、たまたま見つけた書道の講義をとり、硬筆課題を久しぶりに書いた。ペンを握っていざ紙に向かうと、あの頃ほど沈潜し、執着することができなくなっていて驚く。不恰好に仮名を並べたいろは歌は下手くそで悔しかった。「これじゃない」と久しぶりに思った。

あの時間が自分に刻んでくれたもののことを思う。集中。沈潜する心地よさ。自己否定をじくじくと続けながら長い時間をかけて上達した経験として、いちばん長く、いちばん濃密だったんだろう。

模写や絵が人並みにできるのも習字のときの目の癖がついているゆえだったり、字が綺麗と言及してもらえることがあったり、習字の経験はところどころで顔を出す。わたしの数少ない習い事のひとつだった習字。習字から書道にうつることもなく、高校に入ってやめてしまったことを、今でも少し公開している。

話が逸れた。本当は、「なんで漢字を学ぶ必要があるの?」というお子さんの問いを目にしてから漢字の楽しさについてずっと考えていて、この文章を書き始めたのだ。自分にとっての文字を学ぶ楽しさのひとつが、「漢字は表情」という、長らく忘れていた感覚だった。これを思い出せたのも久しぶりにペン字をしっかり書いたせいだ。

綺麗なメタファーをこころみるなら、漢字は、ある種の魔法なのだと思える節がある。点画を組み合わせて並べると、意味が生まれ読みが生まれる。その漢字から想起される色や景色や概念がある。それは、魔法陣を書けば、なにか異界への入り口が立ち現れたり、不思議な風が巻き起こったりするのに似ている。

でも、そんなことは長い時間が経ってから感得されるもので、もっと素朴な楽しさが根底にはあるはずだ。新しい文字が増えて嬉しい。新しい言葉を知って、言えることが増えて嬉しい。「なんで漢字を学ぶ必要があるの?」というお子さんからの問いに答えるとき、なにか足りないのは、その楽しさを体得してもらう機会の方である気がする。

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