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羅 ─ 列

あれはアタシが幼い頃、まだ新幹線も通っておらずあの街が観光地になるずっと前の話。
いつも保育園に通う道のりに、地元では有名な氷屋さんがあった。
朝方にはもうお店の入り口が大きく開いていて
大きな四角い氷の柱を回転するカッターで切り分ける音が鋭く通りにこだまし、仕事や学校に向かう人々の眠気を強烈に覚ましていた。
保育園児の時分はとにかくその音が怖くて、お店の前を通る時はまるで、予防注射の日、小児科に引きずり込まれる時のように、目一杯その氷屋さんとは反対側に体を翻しながら目をつぶって駆け抜けていたものだ。
もうその氷屋さんも小児科もなくなっちゃったんだけども。


誰かの相談に乗ること。
自分の人生やら価値観やらを正当化することに非常に似ているというか、そのものだと感じるんだな。
アタシの言ったことに相手が納得してしまったらなおさら。
もしかしたら自信があるから相談に乗るのではなくて、自信がないから心配だから

大丈夫だよね
間違ってないよね
アタシかっこいいよね

なんて確かめたくなる節があるのかもしれない。
正解ってなんなんやろな。
押し付けちゃってないかな。
美味しくないもの飲み込ませてないかな。

でもやるしかないんだよな。やるしかない。


勝手に誰かの能力を想像しがちですね。

あの子大学どこ行ったんだっけ?
高校は?部活は?じゃあ文系だ、理系だ。
就職したの?ああ、あそこか。
大変そうだね。じゃあ年収はこんくらいか。
あの子結婚したんか。いいな。めでたいな。
相手は年下?年上?ふーん子供とか産むんかな。

で、自分は?

自分の理想より誰かさんが先を歩いてるのか
それとも後ろを歩いてるのか。
いつのまにか能力を覗き見てる。
前か後ろかなんてどちらでもいい。
比べ続けることがもうしんどい。


「アタシ」が生きている感じしないんだよな。
誰かを纏ったコスプレをしてる気分。

高校生のコスプレ
アルバイトのコスプレ
4人家族の長男のコスプレ
生徒会長のコスプレ
大学受験をする人のコスプレ
感じよく振る舞おうとしている人のコスプレ
ラジオやってる人のコスプレ
誰かを本気で愛している人のコスプレ

はぁ、もうヤんなる。
何をしててもイベント感が抜けなくて
肩肘張ってわりきってる。
コレでも生きてるんだよな。
19年と半年になります。

誰かのフリして生きるのもうやめよう。
もう少しわがままになって、
時には誰かにとってヤな人になろうと思います。
そうすればアタシと言う人間の小ささよりも、
アタシを取り巻く世界の大きさにもっと素直に気付けるはずなんだよなあ。

もうちょっと無責任に生きてみようと思うやい。


非日常を3年近く続ければ、流石にそれが日常になっていく。

『日常』と『非日常』は表裏一体である。

日常が途切れれば非日常となり、その状態が続けばそれこそが日常なのだ。
できることなら、何かしら細かいイベントが変わりがわり続くのではなく、安定し、かつ凸凹した不細工な日々が続いて欲しいものである。

要するに、アタシの高校生活がもう終わりを迎えようとしている。

ドキュメンタリー映画などで見るオレンジ色であまり眩しくない大きな夕日が大好きだ。
実際の視界では見ることができないほどカメラで拡大され、四角い画面の半分ほどを占める巨大なそれがゆっくりと地平線のどこかへ姿を消す。
大抵そのようなシーンはBGMがなく、風が流れる音、人間の話し声や自動車の走行音、カラスの鳴き声といった“自然”の音をそのまま取り込んでいるイメージだ。
アタシは密かにその音たちを、「夕日が沈む音」と呼んでいる。
耳に手を押し当てた時に聞こえる「ゴーっ」と言う音に似ているが、それはまた別の話だ。

今アタシの高校生活は「夕日が沈む音」とともに、ゆっくりと着実に終わりを告げようとしている。
16歳のあの冬には聞こえなかった音あるいは聴こうとしなかった音を敏感に聞き入れ、胸の中に反響させ、やがてそれらは感情となり言葉に姿を変える。
人生におけるマジックアワーが訪れ、溢れるほど降り注ぐ言葉たちと共に「夕日が沈む音」を口ずさまずにはいられない。

この3年間に出会った人すべて、アタシの口から言葉にして差し上げたい。

存分に微笑もう。そして涙しよう。

すぐに訪れる夜明けには非日常が待っているに違いない。
ありのままに不細工な日々がやってきますように。


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