令和6年能登半島地震ルポ金沢市より①

【読む際のお願い】
⭐︎令和6年能登半島地震に関して、地震災害やテレビによる災害速報について記録しました。心身に負担を感じやすい方はご注意下さい。
⭐︎自宅は金沢市内で沿岸から10キロ近く離れているが海抜は高くない。
⭐︎公的機関の情報ではなく個人の体感を記したものであり、曖昧な表現や報道機関の情報と誤差、矛盾が生じうることを留意してほしい。

─2024年1月1日

午後4時ごろだったか。
自宅の2階にいると家具がカタカタ揺れ出す。
地面が揺れている感覚はなかったが、窓ガラスが大きな音を立てて振動している。昨年の5月(令和5年奥能登地震)と比べ揺れは同程度かやや小さく感じられたため至って冷静にテレビをつけてNHKニュースを見る。震源は能登地方だった。

一度おさまったかと思ったが1分もしないうちに再び揺れ出す。20秒ほど遅れてスマホの地震警報が鳴る。今度は家ごと揺れている感覚があり、少し焦る。大きな音を立てて激しく揺れていた。家具や食器がカチャカチャと音を立てている。またテーブルや洗濯機といった大きな家具が激しく揺れているような音も聞こえる。揺れはおさまっていないが、壁を這いながら階段を下り一階にいる祖父に声をかける。焦りと恐怖から必然的に声が大きくなっていたが、地響きや家具のぶつかる音で聞き取りにくかったと思う。

テレビでは地元支局ではなく、おそらく東京のアナウンサーが速報を素早く読み上げる。体感では震度5強ほどだったがテレビの表示では震度7と出て驚いた。そして間もなく津波警報が発令された。2階の自室に戻ってみると、1.5メートルほどのタンスがズレ動き、机や棚から本、写真立て、文房具が床に落ち散らばっていた。

揺れが一旦収まり、ガス栓を閉め屋内の動線を確保しながら玄関の扉を開けに行った。その際近所の家からも人が出てくる様子があったので少しだけ話した。皆冷静を保とうとしていたが、スマホを手に持ちお互いの様子を伺っているようだった。言葉にはしなかったが焦りが見て取れた。

家に戻ればテレビでアナウンサーが声を大きくして避難の勧告を行なっていた。過去震度5程度の地震が起きた際、揺れがおさまって間も無く「津波の危険性はない」等の報道がある。しかしながら今回はすぐに津波警報が発令され、この地震の異質さを段々理解していく。
普段地震に対して冷静で楽観的な姿勢である祖父も避難することに躊躇っていなかった。通帳やマイナンバーなど身分証明書とパーカー、財布等を大きめのバッグに詰め、非常用リュックも一緒に近くのイオンに車で避難した。16時30分ごろ、泥棒が入らないように窓や玄関の鍵は全て閉めて出かけた。

祖父が運転する車に乗り自宅を出る。少しひらけた先には黒煙のようなものが上がっているのを見た。火災だろうか。車通りはやや普段より多く、速度も挙動も急いでいるだろう車が多数見られた。途中後方からサイレンを鳴らした消防車が見えたため、ハザードをつけて側道に避け先を譲った。消防団の法被を着た人もどこかへ走っていた。家からほど近いイオンを目指して車を走らせる。

散歩に出ていた姉がちょうどイオンにいると連絡が取れていたため合流する。
空がまだ明るかったので、山間部への避難に備えて車の中で待機。カーナビのテレビでニュースを流す。
津波到着の予想、あるいは金沢港には既に到着していると読み上げられるがいまいち実感が湧かない。
駐車場から出ていく車列はおそらく家や職場に向かう人たちだろうか。逆に入ってくる車も多い。小さな子供には自転車用のカラフルなヘルメットが被せられている。近くに住んでいるであろう家族も大きな荷物を持って徒歩でやってきた。パニックで身動きが取れないような状態になっておらず少し安心する。

外が暗くなってきたのでイオン館内に入る。一階食品売り場そばのフードコートで一休みする。
館内にはそれなりに多くの人がいたが、皆やや早足で買い物カートを押しており、段ボール入りの飲料や食べ物を買いに来ているようだった。避難を目的に赴いている人は少ない印象。館内の商品が散乱している様子は見て取れなかったが、酒瓶が割れて中身が溢れていた。店員がモップで掃除をしていたが周囲にはお酒の匂いが漂っていた。

1時間ほど滞在していた。スマートフォンでNHKのニュースを見ながら様子を伺う。気づけば津波警報は“大”津波警報に変わっていた。スマートフォン画面の右下には日本地図。日本海側の海岸線が赤色と黄色でなぞられ、点滅し続けている。その様が当時幼いながらも鮮烈に記憶している東日本大震災のテレビ画面を思い出させた。今回は今自分がいる地域に一番濃い色で線が引かれていることにより一層緊張を掻き立てる。
館内でも体で感じるほどの小さな揺れが続いた。天井から吊り下がった館内表示も細かく震動し、その揺れが勘違いではないことを確認した。
わざとなのか館内音声が軽やかな声と音楽とともに流れ続けていた。いつもどおりだった。少し心の中が落ち着いてきた実感があった。
17時50分ごろ、3人で自宅に帰ることを決めた。

自宅に帰り改めてリビング、自室を確認する。普段決まった場所に収まっていた家具諸々が床に散らばっていた。母親は叔父と共に出先の避難所に入った。父親も職場を早めに閉め、二人のいる避難所に合流した。祖父を含めて家族5人それぞれの安全を連絡し合うことができていた。
家についてからも短いながらやや大きめの揺れが続いた。その度に床に膝をついておさまるのを待った。
棚から落ちたものはとりあえず床に平積みした。家を出る前は気が付かなかったが、食器棚の中でコップが倒れて割れていた。他にも壁にかけていた額縁が落ちたりガレージの自転車が倒れたりしていた。ガスや水道、電気は止まっておらず壁にヒビが入る等も認められなかったためそのまま家にいることに。この後の地震にも備え灯油ストーブは使わずエアコンで暖をとった。姉がこしらえた卵うどんを3人で食べ、食器棚はテープで開かないようにとめた。

依然、避難所にいる父、母、叔父とは連絡が取れておりお互いの安全を祈りあって「おやすみ」と伝えた。友人ともLINEを使って連絡をとることができた。避難所に行った者もおれば、停電した自宅にとどまる者もいた。インスタグラムのストーリーズで友人の現状を逐一確認することもできた。
祖父はいつも通り8時30分ごろには就寝していた。
姉とともにコタツのあるリビングに枕と羽毛布団を持ち込んで寝ることにした。

スマホのアラームがなることはしばらくないが、いわゆる地面から突き上げるような小さな衝撃が時々あり、家がミシッと音を立てる。その度に一瞬の緊張が走り体を起こす。今夜は熟睡することはなさそうだ。部屋の照明は暗めに設定し、テレビは音量を下げて点けたままにした。23時を過ぎた頃に震度7を能登地方で観測したとの報道があったが、その後震度3に訂正された。続々と新しい映像も報道され始め、火災や津波の現状を把握できるようになっていった。避難所にいる母や父はこのニュースの映像を見ることができただろうか。映像による情報の重要性を実感する。

翌0時30分。無意識に緊張感が抜けていないのか、いまいち寝付くことができない。津波警報はいつ頃解除されるのかまだ分からない。父親は明朝、また職場に行き片付けをしなければならないらしい。明日には無事母親が自宅に帰って来られることを願う。これ以上、被害が拡大しないことは祈ることしかできない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?