サザンビーチ

「サザンビーチは南のビーチ。常夏の白い砂浜と、どこまでも続くエメラルドの海よ。」

幼少の頃に見たリゾートポスターのキャッチコピーは、なぜか私に不穏な気持ちを抱かせた。ビキニ姿で麦わら帽子をかぶった女は写真のなかで屈託なく笑っていた。後ろには砂浜と海。空は真っ青に晴れていて、入道雲がもくもくとはえていた。
そのポスターにはたしかに、間違いようのない楽園が表現されていて、それがかえって私には不安だった。そこには私の生活にとって「あるべきもの」が何もないように思えた。

朝5:00、室温は5度。朝日がうっすらとあたりの暗さを取り除きはじめ、私はのそのそとベッドから出ようとする。毛布は体に巻きつけたまま、コンロでやかんの湯を沸かす。

ガスストーブをつけると、やっと目覚めた心地がする。1Rの部屋はしばらくすればすぐ暖かくなる。

「サザンビーチは南のビーチ..」

なぜ今、リゾートのことなんかを思い出したのだろう。

たまに(私の意志とは無関係に)色々な過去の記憶が私の頭を埋め尽くす。ほとんどは幼少のときの小さな記憶で、サザンビーチのように今の私にはどうでもいいことだ。それがかえって私の頭を惑わせ、混乱させ、思考を埋め尽くしてしまう。

こないだは、薬局にあったカエルの人形が店の奥にしまわれている情景を思い出した。そのとき私は店員さんが、カエルを誘拐しているのだと思い、なんともやるせない気持ちになった。
その前はたしか、庭のみかんの木にいたアゲハチョウの幼虫。これについては何を思っていたか、今となっては思いだせない。でも、幼虫の不自然なくらい鮮やかな色と、ゆっくり、モソモソとした動きだけがいつまでも私の頭を埋め尽くした。

私はこの"記憶のそれ"が起こるのがとても苦手だ。どうしていいのかわからなくなってしまう。
私は常に、できれば目の前のこと、例えばこのあと顔を洗って、歯を磨くことや、いつも通りのメイクをすること、朝ごはんをどうするか決めることなどに、意識を向けていたいと思う。
そういうときの私は比較的、きちんと生きられているな、と思う。それは私にとってとてもいいことなのだ。

コーヒーを淹れる。
こないだスーパーでいつもより少しいいコーヒーを買った。ドリッパーは駅前の雑貨屋で母が買ってきてくれたやつだ。(花柄で、私は全然気に入っていない。柄のある物が本来あまり好きじゃないのだけど、貰ったものを捨てるのももったいないので使っている。)
コーヒーの粉をセットしたら、お湯が沸くまでストーブの前で待っている。だんだん部屋は温まり、私は毛布をたたんでベッドに置く。

サザンビーチのポスターを見たのはどこだっただろう、私は考える。同時に、冷蔵庫に佃煮が残ってたっけ、朝ごはんはあれとごはんにしようかなと考える。そして、昨日、蒔田課長から言われた社内コンペの資料のつくりかたをどうしようかと考え、今日が金曜日だということを思い出す。そういえば、大学時代の友達が、今度結婚するんだっけ?隆之もそろそろ私にプロポーズなんてするのだろうか。27歳、もうそういう年齢なんだな。

ああ、見事にごちゃごちゃだ。

サザンビーチ、たしかあれは私がデパートに連れて行って貰ったときに見たんだっけな、と、私の頭はなんとなくその情景を思い出しはじめる。今考えると、デパートの隅にある旅行代理店に母と行ったのだと思う。家族旅行などあまりしない家だったけれど、何の用で行ったのだろう。
たしか私の小さい頃に、一度だけ、箱根の温泉に行ったことがあるけれど、その旅行だったのだろうか。

旅行代理店の店内はさすがに思いだせなかった。思い出せるのは、待合室のような人工的なソファと、そこに立て膝で座る私。ソファの上の壁に貼られたポスター。水着の女が屈託なく笑っていて、白い砂浜と真っ青な空と、入道雲。

「サザンビーチは南のビーチ。常夏の白い砂浜と、どこまでも続くエメラルドの海よ。」

私はそれを見て不穏な気持ちになるのだ。そう、たしかにあの世界は、当時の私にとって「あるべきもの」が何もない世界だった。母も、一緒に寝ていたぬいぐるみのクマも、優しい祖母も、夕飯のコロッケもそこにはなかった。だからきっと、不穏な気持ちになったのだ。

熱めにコーヒーを淹れる。窓の外は曇っているが、いくぶん明るさを増した。札幌の秋は、サザンビーチのそれと真逆の世界だ。もうしばらくすると初雪の話が出てくるのだろう。

今度、隆之にあったら、旅行の話をしてみよう。サザンビーチでなくても構わないけれど、南の島で、真っ白な砂浜と、真っ青な空と、エメラルド色の海がある場所へ行って、ビキニでも着て泳ぎたいと言ってみよう。ピンク色のカクテルを飲んでみるのもいいかもしれない。

そこには27歳の私にとって、きちんと間違いようのない楽園があるだろう。そこで屈託なくはしゃいで、笑おうと思う。あの時の私を安心させられるくらい、屈託なく。

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