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隣に住んでいる無職のお兄さん

僕の実家の隣に、無職のお兄さんが住んでいます。”お兄さん”と称しましたが、年齢は不詳、僕より上か下かもわからない。なので、若い男性という意味での”お兄さん”だ。僕の実家の隣に住んでいるということは、幼い頃から彼と馴染みがあったのか?というと、そうではない。僕の幼少期、隣には今にも吹き飛んでいきそうなトタンの家が建っていた。子供だった僕はその奇怪な外観にただ恐れをなすばかりで、どんな人が住んでいるのかさえ知らなかった。高校を卒業したのち上京し、僕が10年間東京に住んでいる間にそのトタンの家は消滅していた。代わりに、こじんまりとした今風の家と無職の住人が爆誕した。景観だけで言えばこちらのほうが何倍もよい。

なぜ僕が隣人が無職であることを知っているか。それは親から聞いたからだ。田舎の人間というのは、狭いコミュニティ内で「あの人がどうしたこうした」というゴシップが大好きなのだ。なので、話の流れで隣人が無職だと知った。それ以上のことは言わなくていいと釘を刺した。本人から身の上話を聞くのは好きですが、人づてに真偽もわからない噂話を聞くのは好きではない。なぜ無職なのか?とか、それこそ年齢とか、僕が聞けば親や近所の人は何か情報を知っているのでしょうが…。僕だって「10年東京に住んでたけど都落ちして敢えなく田舎に帰ってきた青髪のドラ息子」と近所で囁かれているかもしれない。

さて、僕は無職のお兄さんとは一言も喋ったことはありませんが、コミュニケーションをとったことはある。僕の家の前の道はたいへん狭く、軽自動車であっても車がすれ違うことはできない。そのため、自宅から出かける人、自宅に帰ってくる人がお互いに車で鉢合わせてしまった場合、譲り合いが発生するのだ。基本的に、自宅から出かける側の人が譲るという暗黙のルールがある。帰宅する側の人は大通りから小道に入ってくる形になるため、バックなどの対応は難しいからだ。譲り合いのすえ、互いの車がすれ違う時に軽く会釈をしたり、片手を上げてサインを送るなどするわけですが、これは人によってマチマチだ。会釈なのか首をゆらしたのか判別がつかぬほど控えめな人もいるし、ヘドバンくらいの勢いで深々とお辞儀をする人もいる。中にはその手のコミュニケーションを一切とらず、素知らぬ顔で通過していく人も。一瞬イラついてしまうが、運転中の会釈などは危険ですからね。真っ直ぐ進行方向を見て運転するほうが正しい。

無職のお兄さんはというと、ひどく礼儀正しい方である。僕よりも大きいサイズの車に乗っているにも関わらず、器用に操縦して道を開けてくれる。すれ違う際は一時停止し、こちらを向いてお辞儀をする。無職の彼には、もしかすると社会性はないのかもしれない。けれど、無職経験のある僕には分かる気がする。きっと彼は真面目すぎるのでしょう。社会を生きていく上では、ある程度は図々しさが必要だ。僕は社会のそういう部分が苦手なんだ。下手に思考を巡らせるくらいならパワーでゴリ押したやつの方が強い、みたいなところがある。頭脳プレイで生き抜いていくには相当なスマートさが求められる。みんなそれに気づいて、どんどん考えることをやめてドライになっていくんだ。

けれど、無職の彼は違う。彼には、社会に穢されていないピュアな優しさが残っている。どうかその心を失わないでほしい。僕もあなたも、失礼ですが後世に遺伝子を残すことは叶わないのでしょう。つまり、社会に淘汰される側だ。だけど、せめて自身が生きている間くらいは。月曜日の真昼間から優雅に、けれど不安と哀愁を纏ったように街へ繰り出していく様が、僕にはかっこよく見えてしまうんだ。

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