他撮りで損なわれる自尊心

自撮りという言葉が普及してからというもの、従来のように他人から撮影してもらう写真を他撮りと言うようになった気がする。自があるから他がある、表裏一体の関係だ。男性、とりわけ人付き合いの少ない陰キャ男性あるあるですが、画像フォルダの中に自分の姿が映った写真がほぼない。撮ってくれる他人もいなければ、自分自身を撮影しようなどと魔が差すこともない。学生時代はクラス写真などがあるので、自分の成長する姿がコンスタントに記録されていく。しかし、大人になると自分で意識しない限り己の姿を残すことはできない。気づけば時間ばかりが経過していく。

自分の生きた証が残らない、それはなんとも虚しく恐ろしいことかもしれない。けれど、大人になった後の姿なんて、わざわざ記録しなくてもいいのかもしれない。子供の頃のように数カ月単位でみるみる成長していくわけでもないし。ただ年々歳を重ねて醜く老いてゆくだけだ。いや、にしたって考え方がやけに悲観的すぎやしないか。御明察、僕がずいぶんとネガティブな思考をしているのにはワケがある。

先日、友人と旅行に行ってきました。男同士で遊んだ時に互いの写真を撮る機会なんて滅多にありませんが、旅行中は例外だ。全員で記念写真を撮ったり、行く先々の観光スポットで撮影してもらったりと、全身像から顔面アップまで写真を撮るための大義名分が溢れている。しかも、気温30度を超える真夏日が続いたこともあり、マスクは外していた。そんな無防備な顔を標準カメラで無闇に撮られてもみなさい、身の毛もよだつ他撮り写真のできあがりだ。

自分の顔を見るとすれば、たいていは自宅の鏡に映った姿だ。毎日見ているのだから慣れるし、それを自分の顔として認識する。自分の顔は自分の見たいようにしか見ない。都合の悪い映り方をする角度や表情は見てみぬふり。また、これまでは彼女に写真を撮ってもらうこともありましたが、恋人の写真なのだから最大限盛れるように気を使ってくれている。故に、自分の顔をかなり偏ったフィルターを通して見ていたことになる。そんなわけだから、友人に撮られた自分の写真を見て絶望した。そんな醜い画像はすべて雲散霧消してくれ…見たくない見たくない。女性が整形したくなる気持ちにこれほど共感したことはない。やはり、自分の姿など記録するものではない。よほどの自信家でもない限り…。ますますマスクが手放せない生活になりそうだ。

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