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なんでスポーツに興味が持てないんだろう

ワールドカップのラグビーやバレーが盛り上がっているようですね。以前にも軽く触れたように、僕はどうにもこうにもスポーツ全般に興味が持てません。これまで何度も興味を持とうと試みました。つい昨日も男子バレーの試合をTVで見まして、パリ五輪の切符を獲得したようでおめでたいことですね。しかしやはり、興味は持てません。試合を見ていて「おー」と思うくらいのことはありますが、「最高だ!!これからもずっと応援し続けるぜ!!」という気持ちにはならない。うるせえなあお前みたいなやつは一生引きこもってアニメでも観てろよと言われそうですが、僕なりにスポーツを楽しんでみたいという気持ちはあるんです。そこで、どうして僕がスポーツに興味を持てないのか、今一度考えてみました。

僕はこれまでの人生で、スポーツを全く通らずに生きてきたわけではありません。小学校の頃はサッカーや器械体操を習っていたし、運動そのものも比較的得意だった。しかし、運動神経の良し悪しとスポーツの好き嫌いに相関はない。運動音痴でもスポーツが好きな人はいるだろうし、運動神経が悪くなくともスポーツに興味のない人もいる。僕は後者だった。習い事にしても学校の体育の授業にしても、何度も嫌な思いをしてきた。今でも脳裏に焼き付いて離れないエピソードがいくつもある。が、詳しいお話はまた今度。だから僕は、自然とスポーツやそれに関連するものと距離を置くようになっていった。けれど、「嫌な思い出があるからスポーツに興味が持てない」なんて、あまりに短絡的すぎないか。もうすこし深掘りしてみよう。

逆に、興味のある漫画やアニメはどうだろう。僕がそれらを好きな理由を考えれば、背理法的な感じでスポーツを好きになれない理由もわかるのではないか。推測の細かい過程はさておいて、結論から申し上げよう。僕の人生における漫画やアニメ、これらとスポーツの決定的な違いは「心を打たれた経験の有無」だ。そうした経験は感受性の豊かな幼少期の頃のほうが影響は強いだろう。僕は幼いころに何度も、いろいろな作品に心を動かされた。今の僕の価値観を形成しているものの大半がサブカルチャーからの影響だろう。しかし、僕はスポーツで人生が変わるような体験をしたことがない。

心が弱っていて、何もかもやめてしまいたい時。そんな時に「奇跡体験」をすると、人は「救済」をおぼえる。ギャンブルや宗教がその最たる例かもしれない。パチンコは、当たりを引けばティガレックスの咆哮のような轟音と、閃光玉のような眩い光の演出が入る。これによっていわゆる脳汁が分泌され、束の間の多幸感に包まれるのだ。奇跡。宗教もそうだ。何もかもうまくいかず、頼れる人もいない。そんな時、自分を認め、受け入れてくれて、いちばん欲しい言葉をくれる人がいたらどうだ。その人の言う通りに行動してコトがうまくいけば、彼彼女にとってそれは奇跡。救済。

僕にとっては漫画やアニメがそうだった。作品を通じて心を動かされる「奇跡体験」は何度もしたし、心が辛いときに「救済」もされた。そして、僕にとってスポーツは救済を求める対象じゃなかった。奇跡も救済も、なかった。ただそれだけのこと。結局のところ、誰しもが生きていくうえで救済を求めているのだ。何を通じて「奇跡体験」をするかによって、救済を求める対象は変わってくる。僕のように漫画やアニメの人もいれば、スポーツ、ギャンブル、宗教の人もいるでしょう。それらに貴賎も優劣もない。ただ、人は弱いし脆い。だから、いつだって誰だって、救いを求めているのです。

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