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にゃるらを倒せない、倒さない

僕が勝手に師と仰いでいるにゃるーらが、先日このような記事を書いていました。

いわく「我を倒したくば20代でゲームや小説を出すことだ!あと、年間100万字くらい文字を書いたり作詞をしたりすると良いぞ!読書やアニメ、映画の鑑賞など日々のインプットも忘れるなよ!」とのことで(超絶怒涛の意訳、もはや異訳)、つまりにゃるらを倒すためにはストイックなオタクライフを送らなければならない。う〜ん、何者かになりたいアニメアイコン達を煽るだけあって、なかなかに高い障壁を課してくる。まあ、彼はそれだけのことをやっているという証左でもあるわけです。

しかし、にゃるらを倒すとはなんだ。一体どういう意味なんだ。単純に、彼と同じようにゲームや小説を手がけ、彼以上の売り上げを叩き出し、年間200万文字くらいの執筆活動をして、富も名声も彼を上回ればいいのだろうか。確かに、そうなれば商業的な意味ではにゃるらを倒したと言えるのかもしれない。で、そこに何の意味がある?にゃるらを倒すことを目的として創作活動をし続けた結果、賢者タイムという虚しさが残るだけなのではないか。

本人が「倒す」という表現を使っているので流用しましたが、辞書的な意味に準じれば「にゃるらを倒す」ためには別の方法が考えられる。なぜなら、仮に僕がにゃるらよりも大きな実績を出し商業的に成功したとしても、彼はこれまでと変わらずピンピンしているでしょう。同じコンテンツ業界でも、仕事上で交わる機会がなければ僕のことなどOut Of 眼中かもしれない。果たしてこれは「倒した」と言えるのか。

「倒す」と言うからには、にゃるらのゴシップネタなどを掴み、社会的に抹消するという方がしっくりくる。にゃるらがにゃるらとしての存在価値を失い、屍同然の状態になるまで叩きのめす。そうして初めて「にゃるらを倒したぞ!」と言えるのではないか。たいそう物騒なことを言いましたが、当然そんな下らないことに精を出すつもりはない。

そもそも、にゃるらと同い年で何も成し遂げていない僕が、今更にゃるらを超えることなんて不可能だ。少なくとも彼の背中を追う同一線上では。まったく別の界隈に行けば話は別でしょうけどね。しかし、かといって悲観することはないのだ。僕はこうして毎日日記を書き続け、来月で1年となります。このことを友人に話したりすると「いや普通にスゴくね?」と言われますが、僕としては「4年続けてるにゃるらに比べたらクソ雑魚なんだよなあ…」と素直に喜べない。が!いや普通に誇っていいんじゃないか?常ににゃるらと比較するから自分が劣って見えるのだ。彼の存在を見据えて地道な努力をしている時は視野が狭まっているけれど、ふと辺りを見渡してみると、自分には着実に結果がついてきている。

己を俯瞰することと甘やかすことの境界はなかなかシビアだ。驕ってはいけない。たかだか1年弱毎日投稿を続けているだけじゃないか。それを事実としてフラットに受け止めるだけに留め、より邁進していかなければならない。そのために「にゃるらを倒すぞ」という闘争心をモチベーションとして宿しています。にゃるらの存在、そして彼を倒すぞという気持ちが僕にとってのメンターなのだ。僕が毎日投稿をやめれば、心の中のにゃるらが「ふん、また一人堕ちたか」とほくそ笑むことでしょう。そんなのは御免だ。むしろ、彼が毎日投稿を続けられなくなった時に僕が大いに笑ってやるのさ。「ニア、僕の勝ちだ」の表情でね。いやそれだと結局その後に負けるじゃないか。

志が低いかもしれないけれど、今の僕はにゃるらを指針にしておきたいんだ。「にゃるらなんてとっとと追い越して、その先の世界を見てやるんだぜ」くらい言えればかっこいいのでしょうが、さすがに身の程知らずが過ぎる。だから、僕にとって「にゃるらを倒す」は、ほむらちゃんにとっての「ワルプルギスの夜を倒す」なのだ。目標のために全力を尽くすのだけど、その結果が自分の中で矛盾を生んでしまうため、永遠に目標を達成できないループに陥る。でもね、ここはアニメの世界じゃない。ジリジリと距離を詰めて、いつかにゃるらの寝首を掻いてみせよう。日々創作に耽る彼を見ていると、自然とそんな気持ちが湧いてくる。僕も怠けちゃいられないと思える。いつもワクワクさせてくれてありがとう。次に会う時は敵同士、かもな!(まだ1度も会ったことないけど)。

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