ワタナベのおばちゃん

愛してください私だけ。さすがの私も限界です。
毛皮のマリーズ「愛する or die」

限界だった。

もともと大きなサイズ感でもって産まれてきた娘の泣きじゃくる声は、身体の成長に比例して馬鹿でかくなっており、それに加えて夜中の授乳時に全力で抵抗。シャウト、シャウト、またシャウトという夜が1週間ほど続き、なんならシャウトのし過ぎで、自ら咳き込み声を枯らし、その状況に腹を立ててまた叫ぶという不毛すぎるループを演じる始末。

我々夫婦は、食うものも食わず、ハイトーンボイスでシャウトを繰り広げる小さなメタル歌手相手に深く絶望していた。

ある日、昼飯を食いに私が職場から家に戻ると、カーテンを閉め切った部屋の中でキッチン灯のみがチカチカと光っており、ソファに座る家人が無表情のままサメザメと涙を流している。彼女の膝の上では、また授乳に失敗したのであろうか。それともメンバー間でギャラの配分について諍いが生じたのであろうか。小さなメタル歌手が身体中を震わせてスクリーミングしており、腹の底から君の名前を叫んで飛び出したIt`sMySoulといった状態。家人がボオっと見つめるテレビでは別の町での児童虐待のニュースが延々と流れている。

ここは地獄か。

急いで飯の支度をして、食欲のない家人に親子丼を作り食べさせ、「親子」とかなんで今チョイスしたんだろう俺は、などと思いつつも娘を引き取り、抱っこし、寝かしつけたりしていた。

ふたりとも限界だった。

そんな中、区の民生委員が家庭訪問に来るという日がやってきた。赤子の成長具合や母体の回復具合・精神状態などを見に来てくれるものらしい。

私も話を聞きたいので、午後からの仕事をよして家に戻り、家人と「すこし寝る?」とか話していると、予定よりも早くチャイムが鳴った。

はーい、と玄関を開けると、ヴァアアアアッと覇気のようなものを纏って、嵐の如く入場してくるご婦人。

ワタナベのおばちゃんの登場である。

「はああああい、まずは手、洗わせていただきますね!」

から始まり、すっげえテンションとマシンガントークで畳み掛けるワタナベのおばちゃんとその勢いに圧倒される我々。すると、来客時には嘘のように静かに眠る外面のよい娘が起き出し、泣き叫びだした。

「うわああ、これは、これは、大変だああ。いやああパワフル。パワフルですねええ、パワフル」

と、ワタナベのおばちゃんが幾分興奮しつつ、娘の体重を量るための器具を取り出した。

魚市場でマグロなどを量るときに使うような珍妙な形の量りに裸に剥いた娘をぶら下げ体重を量る。「いやあああ、大きいねえ、パワフルパワフル」とパワフル界のオピニオン・リーダーたるワタナベのおばちゃんによって、パワフル乳児認定をされる我が子。

「いやああ、私ね、月に50人は赤ちゃん見るんですけどね、この子はちょっとすごいわあ、パワフルパワフル。これは大変だねえ、よく頑張っていますよ、お母さん・お父さん。」

「ちょっと他のご家庭でもこの子の話させてもらってもいい?」

げっそりとヤツレた表情の我々の悩み・苦しみをぶち消すかのように、パワフルに熱く語るワタナベのおばちゃん。傾聴とは程遠いそのマシンガントークに何故か癒やされる我々。世の中にはこういう癒やし方もあるのだと感心する私。

最後におばちゃんが取り出したのは、家人の精神状態を検査するアンケート用紙。

「この1週間の精神状態で当てはまるものに丸を」

みたいなアンケートだったが、この1週間が地獄であったので家人は素直にそのように答えた。つまり「子供のことが可愛く思えないことがある」などの項目に全力で丸をつけていった。

「あああ、そうよねええ、そうよねえ。こうパワフルだとねえ。わかるわあ。いやあほんとパワフル。」とワタナベのおばちゃん。

本人の預かり知らぬところで、他所のお宅でもパワフル乳児として話題に出されることになる娘。

ホッとしたのか、少しだけ安堵した表情でアンケート用紙に真剣に丸をつけている家人。

先日はこの世の地獄かと思ったリビングが少しだけ、狂ってはいるけどファンシーな空間になっていて、私はひとり暖かな気持ちになっていた。

ありがとう、ワタナベのおばちゃん。

そうして素直に答えた家人のアンケート回答はどうやら何かしらの閾値を超えたらしく、ワタナベのおばちゃんは来月、再度家庭訪問に来ることになっている。ピース。


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