【考察】大河ドラマ「どうする家康」第39回!
おはようございます
10月も真ん中の月曜日の朝です
昨日は朝からずっと事務所で作業
ただただ資料整理と申請書類作成
で、月曜日ということで
大河ドラマ「どうする家康」第39回
秀吉に後の秀頼となる子の拾が生まれた
そんな喜びの中、明との和睦を決めた秀吉であったが
三成たちが結んだ和議が自らの望み通りでない
と知った秀吉は再び朝鮮へ兵を差し向ける
都が重い空気に包まれる中、家康は秀忠を連れて
京に隠居していた忠次を訪ねた
そうした中、秀吉が倒れたとの知らせが家康に届く
ドラマのあらすじに関してはこちらへ
→どうする家康公式サイト
大河ドラマも今回を含めてラスト10話
ドラマの終盤で茶々の秀吉に対するセリフ
「秀頼はあなたの子だとお思い?」
「秀頼はこの私の子、天下は渡さん」
秀頼は実は秀吉の子ではなかったというのは
実際かなり言われている説です
①豊臣秀吉には正室、側室含めて16人以上いたが、
子が生まれたのが淀殿だけであること
②秀頼が生まれた時期は、
豊臣秀吉が57歳の時であり高齢であること
③資料から受胎日とされる日に秀吉と淀殿が
一緒にいない可能性が高い
④成人した秀頼は秀吉とはかなり体格が違っていた
といったことがその理由として多く言われているもの
では誰が秀頼の実の父親であったかというと
大野治長
石田三成
真田信繁
名古屋山三郎
無名の陰陽師
の5人が多く言われているようです
大野治長は茶々の乳母であった大蔵卿の局の子で
そうしたことから茶々との信頼関係はあっても
不思議ではなく実際に大野治長は大阪城で
秀頼と淀殿と共に自害しています
また実際に密通をうかがわせる資料もあるようです
石田三成は茶々と同じ近江国生まれであること
などから可能性の一つとして挙げられているようです
ただし三成は秀頼の生誕の前年には朝鮮半島に
いたという説もありその辺からフィクションである
可能性も高いようです
真田信繁(真田幸村)はご存知大坂の陣で
大活躍した武将ですが実は幸村は秀頼とともに
大坂の陣で大阪城から逃げのび共に鹿児島へ
生き延びたという伝説もあるようですが・・・
名古屋山三郎は戦国時代のイケメン武将だった
ということから
また茶々は懐妊のために頻繁に祈祷を受けていた ということから
秀頼の父親という説がでてきたようです
と、今回の劇中では秀頼の父親についてはまだ
どのような描かれ方となるかはわかりません
ネット情報やこれまでの展開からは
茶々(淀殿)がラスボス的な展開となることは
間違いなさそうなので秀頼の父親が実は誰かも含めて
ストーリーに大きく影響するのかもしれません
次回、家康は三成との対立が深まる
第40回「天下人家康」
という訳で
今日も一日がんばって行きましょう!
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