落第作①


2020年5月
友人に勧められて、いや、勧められたというほどでもなくて、こんなのあるよ、という感じで、阿波しらさぎ文学賞というものをLINEにて教えてもらい、リンク先に飛び、概要を見たところ、ぼくの場合は吉村萬壱さんのことも小山田浩子さんのことも阿波しらさぎ文学賞のことも知らなかったことなどもあり、「地域ゆかりのものを登場させなきゃいけない時点でつら……無理だろ」などと思って、教えてくれた友人に、〈徳島には思い入れが無いからきびしいかな〉的な返信をしたのだったが、
その後数日経ってからだったか、〈思い入れが無い場所にさえ思い入れを抱いて書くことができれば、そしてそれが、誰かしらの目に止まるものであったならば、それこそ文学者なのではないか〉と思ったりした。これは(たぶん)池内紀さんの受け売りだと思う。
が、そういう気概を持ちながらも、これならいける!というようなプロットは立たなかった。というより当たり前のことなのだが、書き始めることによってしか顕現しない世界に立ち向かう度胸がなかなか持ち得ず、無為に日々を過ごした。更にどうでもいい話をするとバイト先のコンビニの巨大なおばさんとのやり取りがかなりのストレスで、それもかなり低次元なストレスだったため、書くどころか本を読むことさえできなくなっていたのと、それから〈やっぱ歳取ったババアは腐ってやがんな!〉というガキみたいな差別的な反感を抱いていたのであったが、40代か50代だと思っていたその女性が自分より歳下(30歳くらい)であることがわかりショックで複雑な気持ちになったりしながら、すごく小さい世界に引きこもっていたような気がする。
2020年6月
そして応募締切3日前くらいだったと思う。矢張りなんとなく気になり続けていたその賞。それまでのあいだに佐川恭一さんの受賞作を読んで、〈おれでもいけるかも〉という傲岸不遜な姿勢を持ちそうになり、〈やっぱそんなことないや〉と思い直したりしていたのだが、吉村萬壱さんの、阿波しらさぎ文学賞応募者へのメッセージという感じの文章をウェブで読んでみたところ、うろ覚えなので正確な引用じゃないが、〈過去に書いて未完になってしまったものなどありませんか?それを完成させたら案外いけるかも〉みたいなことがもう少し丁寧な言い方で提示されてた。ぼくはそれを読んで、逆のことをやればいけるかも!と思ったのだった。逆のこととはつまるところ過去の未完成の作品など関係無しに、まっさらな気持ちとまっさらな起点で、今から、書き始めれば、いけるかも。と思った。そのあたり、細かい話をしてしまうと自分がやったことは案外「逆」ということでもなかったような気もするけれど、今は措いておく。
6月8日と6月10日の夕方に喫茶店に入って書いた。殆ど殴り書きのような形で、下書きもなしに書いてみたところ、頭の中にあった構成に従ってはいたが、その構成に於ける3分の2くらいのあたりで、気付いたら規定枚数である15枚目にさしかかっていた。力業で終わらせた。(力業、と言うとき、そこにほんとに力があるんだろうか、と思ったりする)。
よし、受賞した、と思って郵便局の窓口で提出した。
数週間経った頃だったか、〈あんなもん、無理だろ。受賞どころか1次選考すら通らん〉と気付き始めた。文章的にも物語的にも破綻しすぎていたし、破綻していて美しければいいが、シンプルに下手だったし、題材などを肯定するにしても、もう少し上手い表現があっただろう、という箇所が50箇所くらい見付かった。50箇所書き直したらまったく別物なので、つまり応募していないのと変わらないと思った。何を血迷ってあんなものを送ったんだろうという気持ちになった。なんとなく、先達の言うような、自分の作品をもう一度見直してみることをおすすめします、というような親切な文言を無視してみたい気分であったし、その気分は何年も前からあったが、やっぱり言う通りにしないと時間の無駄なのかもしれん、と思った。
題材や物語そのものに対して失礼なことを言うつもりは無いが、拙い技術に対して拙いことを認めることをしない、反抗期の中学生のような文であった。
2020年7月
文は人なりと言う。これはこの文学賞への応募とはまったく関係無いのだけれども、反抗期の中学生のような成り行きで愛と喧嘩して、家を飛び出すことになった。
今までで1番長い喧嘩であったのだが実は喧嘩の原因などをそこまで精緻に覚えていないし、覚えている部分だけで言うならば、両方の言い分がくだらなすぎて、これは実はくだらないを通り越して、人生に於ける自己反省の内奥、その、自分自身ですら掴めないよくわからないものに苛立ってたりしていたのではないだろうか、などと、よくわからないことを今になって考えたりするが、兎にも角にもその時の自分には謝る気が無かったし、謝ったところで意味が無さそう、というのがあった。いや思い出した。飛び出したその日に一度帰って謝ったところ全然許してもらえなかったので二度飛び出すことになったのだった。
だので、謝るにしたってその後の指針みたいなものを明確に示せるようになってからではないと、よりを戻すのは難しいと感じた。

1週間ほどホテルやネカフェに泊まっていたらさすがに金が尽きた。その日暮らし、行き当たりばったりの彷徨をしていたため、ほぼ無計画だったことなどもあり、爆音でJPOPが流れる野性爆弾のクッキー似の男が管理するホテルなどに泊まったりして、徐々に疲労が溜まっていった。金を使いながら疲労が溜まるというのはなかなかつらいものがあったが、何があっても八つ当たりなどはしないようにしよう、と思いながら流浪の日々を過ごしていると、ブサイクなガンジーみたいになった。
更に疲労が溜まり、考える力が無くなった。
Twitterで知り合ったゲイの人に、特にやらしい奉仕などをするわけでもなく助けを求めてみると、はるばる10キロほどある住居から車でこちらまで来て、ペットボトルのお茶と、使い回しのペットボトルに水を入れたものを渡された。あの当時は現実そのものを直視できない状態だったのでその人の顔すら直視できなくて、今を以てなおその人の気持ちがわからないが、本当にペットボトルだけ渡して彼は帰っていった。その足でネカフェのオープン席に入る、という、わけのわからない事態になった。お茶や謎の水を受け取る前、歩道ではカブトムシのメスが歩いていた。ネカフェはドリンク飲み放題なのだからお茶と水はもちろん飲まずネカフェに置いていった。あの水には毒が入っていたのだろうか……。
『前科者』という漫画を読んで寝たら、案外良い感じの音楽(アンビエント寄りのヒーリングミュージックやモダン・ジャズ寄りの打ち込み)が流れて、おもしろおかしい夢を見ながら2度寝3度寝をした。宙空一派が音大生的な女性に翻弄される夢以外は忘れた。まるで留置場での生活の昼間に美しい夢を見るような気分だった。文学賞のことも文学のことも忘れた。何も考えないようにしていたら、いい夢が見れた。かたちの見えない強迫観念のようなものがあった。
7月がもう少しで終わる、と思うと同時に、おれがもう少しで終わる、と思った。

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男の虚線
基本的に無駄遣いします。