金田一酸
2010年11月22日に模索舎へ行き、演者が自分の歌の歌詞を忘れてぼくが途中途中教える、ということをやった後、金田一安民さんがぼくに向いて「あなたも何かやられているんですか」と言ってきて、陶板を塔の形にその中を鉄パイプで打ち付けたり、陶板の上にアルミホイルをしいて、そこに文字を書く音をマイクで拾ってもらって演奏したり……みたいな話をしたら、電話番号を交換しましょうと言われ、交換した。
その後ぼくは古淵という街に移り住んだ。古淵は昔は新淵だったらしい。
鬱陶を草原に置く儀式をやっていた頃金田一さんから電話が来て、ダダイズムの有名な作家が死んだから追悼イベントをやるんだけど一緒に演奏しないかと言われた。ぼくが好感を抱いたのは、実はこの時点に於いてさえ金田一さんはぼくの演奏を見ていなかったにも拘わらずそのような重要なものに呼ぼうとしたところだった。その演奏は実現されなかったのだが、なぜ実現されなかったのかは忘れた。
その後蛇管のイヴェントを井岡護が開催することになって誰かいい人はいないかと言われたので、金田一さんを推した。出演が決まったが、当初観客全員がヘッドフォンを装着してやるという主旨であったものが宙沚されて、金田一さんだけがそれにガッカリして、自分のコートをテントにして、その中でクラリネットを吹いた。
その数ヶ月後にぼくは世田谷で間借りしている家で鬱になって、その場所が苦しくて何も出来なさそうに思えたので金田一さんに電話して、少しの間住まわしてもらえないかと尋ねてみたところの回答が、すごく残念そうな声で「うちはねえ、家内と暮らしてるんだけど、部屋が散らかりすぎて、足の踏み場も無いんだよねえ」といったもので、聞いて少し明るい気持ちになった。
一番早く鳴らす人です、と工藤冬里さんがブログで紹介していたのも腑に落ちる人だった。
金田一さんとは20代になって新宿の模索舎で出会って、こんな秘宝みたいな人がいるのかと思ったものだったが、聞いてみたら住まいはぼくの実家の近隣だった。