マガジンのカバー画像

雑感拾遺:“ただあること”を聴く

34
Ecrits divers : 日々の生活の折ふしに聞こえてくる“ただあることども”に耳を傾ける
運営しているクリエイター

記事一覧

固定された記事

【新刊案内】台本集『赤ずきんと死神』

筆者の作曲した歌劇(オペラ)等の台本について、このたび電子書籍の形で公開することと致しました。 ※なお本電子書籍は Kindle Unlimited に対応しております。 一人の少女の旅を描いたモノローグ・オペラ《赤ずきん》(2007) のほか、古典落語に題材を仰いだモノドラマ《死神》(2009) と《一眼国》(2013)、同じく古典落語を題材としたオペラ作品(〝ラクゴ・オペラティック〟と銘打たれておりますが)《なりひら・こぉど》(2013) と《鰍沢綺譚》(2013)

昭和昭和と云ふけれど…

「昭和」といっても、時代としては西暦で言えば1926年(12月25日)から1989年(1月7日)までの半世紀を優に越える長期にわたり、その間には世界恐慌や太平洋戦争(大東亜戦争)という社会的にも文化的にも大きな混乱の節目を迎えていて、その全ての期間を一括りに語ることはできない。 もっとも世間では、ざっくり(本当にざっくりと)〝ショーワ〟とまとめて、その時期のあれこれを並べて「古いモノ」として一蹴する空気もあるようで、言葉の言い回しでさえ無意識にでも口にしたその一言で〝年寄り認

みすゞの魂に寄せる憧憬

金子みすゞの詩による三つの童謡 (2004)2004年初春、金子みすゞの数ある詩作の中から、特に心に触れたものを3作選んで、あまり捻らず、素直な感興を平易なカダンスに乗せたメロディで付曲した。 とかく重量級の作品が歓迎される現代音楽の世界では〝正統なる歌曲〟の扱いを受ける事はないのだろうが、こういう作品があっても良いと思う。 第1曲〈花のたましひ〉-浄土に花綻ぶ詩人の魂 この詩で歌われる〝花〟の、ただただ周りに幸福感を与え続ける姿に、古の聖人たちの生きざまを見る事ができる

この記事は〝琴線に触れる〟か?

「須らく(…べし)」が〝すべて〟を意味する言葉として誤用されているのをしばしば耳にする。皆んなそういう意味で使ってるからいいじゃないか、と容認する向きもあるが、間違いは間違いであり、少なくとも知っている者としては自らの誤用の言い訳にはならないし、また「それは違う」と指摘する義務があるだろう。(ちなみに正しい意味は「当然〜するべきである」) 最近では「琴線に触れる」の意味を〝怒りを買う〟と取り違えているケースもあるとの由。どうやら「逆鱗に触れる」に引かれての誤解のようだが、感

書き出し(イントロ)が肝心

先の投稿で、テンプレ的小説の書き出し文言について触れた。 小説(長短編問わず、またエッセイなどにおいても)の書き出しは重要で、その一フレーズが作品世界を象徴し、読者の注目と期待を一点にフォーカスさせる力が求められる。それは音楽においても同様だが、特に時間芸術であり、聴覚・空間において直線的な時間経過の制約を受けるため、楽譜を「(ページを行きつ戻りつして)読む」という〝振り返り〟をするのでない限り、物理的には最初の一発の音で飽きられたらそれで終わり、という事にもなりかねない。

春に寄せて…

アリア:春風の中で (ピアノ組曲《スケッチ帖》より第2曲) 四月生まれの筆者にとって、訪れる春は常に一年の節目であり、何かが終わり、何かが始まる季節でもある。四季折々、どの刻にも愉しみや喜びはあるが、初めて生を受けた瞬間に肌に触れた春の〝気〟は、常に次のステップを踏み出す力を授けてくれるように感じられる。 古今の作曲家で春を愛さない者はいなかったのではないか。とりわけヨーロッパのクラシック芸術につながる音楽家たちにとって、緯度の高い北半球の長く暗い冬を経て迎える春の陽光は

〝野良ガイド(?)〟に遭遇した話

某国の工作船が展示されている事で知られる横浜の海保資料館。そこで公式にはいないはずの〝解説スタッフ〟に遭遇したという話題が流れてきた。 美術館や博物館で、一見の来場客に対し、そのようなボランティア精神を発揮してくれる御仁 –––––〝自主解説員〟あるいは〝野良ガイド〟とも名付けるべきか ––––– をしばしば見かける。中には間違った情報を伝えていたりするケースも、となれば有難迷惑なハナシで、善意からか自己顕示欲からかはともかくとして、出来る事なら敬して遠ざかりたいものではあ

未完だからこそ面白い

〝小説家〟スヌーピーの代表作『ある真っ暗な嵐の夜だった It Was a Dark and Stormy Night』––––– ––––– 〝なろう系〟が世の読書人口への供給過多を起こすかと思われる昨今。スヌーピーの小説執筆の執念は、特に文章を趣味として書く人種の共感を呼ぶものではないか。出版社に原稿を拒否されて落胆するスヌーピーの姿に、コンクールなどに楽譜を送っては不発に終わり苦渋を舐めさせられ続けた筆者の過去をつい重ね合わせてしまう。 遡れば、確かチェーホフの短編『イ

少年と老芸術家の放浪記

本記事は10年以上前に書いたまま〝お蔵入り〟状態になっていたものである。現在の筆者の語り口と異なる印象もあるかもしれないが、あえて加筆せず、そのまま掲載する事をお許し願いたい。 《家なき子》(2000, France) 今《Chanson de Rémi》と題する小品に取り掛かっています。題材の由来は、児童文学の古典的名作『家なき子』(Sans famille)から。 小さい頃に初めて読み通した長編小説がこの作品だった事もあってか、エクトル・マロのこの作品には少なからず

正しい行動力の使い方とは…

先の投稿で ––––– ––––– と記したが、追い打ちをかけるように、輪をかけて呆れはてる事案が聞こえてきた。 揺れても決して〝落ちない〟というので受験生の願掛けの対象であった巨石。これが、東京からはるばる遠征してきた6人の大学生の悪戯によって〝動かなくなってしまった〟との事。これから受験に臨もうとする若人にとってのいわば聖地、地元の人々にとっては観光資源でもあり、いい迷惑どころの騒ぎではなく、犯罪行為と言わざるを得ない。 この愚行に「天罰降れ」とか「どこ大学だ公表し

10年そこそこの記憶ですら…

東日本大震災から13年。あの年に生まれた赤ン坊も中学生になるわけで、ことほど月日が経つのは早いもの。年齢を重ねれば「ついこの間」という時間の隔たりだが、その感覚的時間の近さは、必ずしも記憶の正確さを担保してくれない。 ここで述べられている事実はまったくもってその通りなのだが、そのように語っている人々のすべてが意識的に〝嘘を言っている〟のかというと、必ずしもそうではない場合もある。 人間は現実よりも観念で生きている領域がかなり大きい。目の前の他者と話をするにしても、家事や仕

ゴジラとラヴェル、時々 私

映画『ゴジラ-1.0』が、アカデミー賞で日本の作品として初めて視覚効果賞を受賞したというニュース。 世代的には〝ゴジラ〟映画にリアルタイム(つまり映画館に足を運ん)で触れた最初の作品は『ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘』(1966)だっただろうか。粗筋はもはや記憶の外ではあるものの、当時すでに子供の人気者(=人類の味方、というワケでもないが)であったゴジラにワクワクし、田圃で見慣れたザリガニが巨大化したようにしか見えないエビラにガッカリし、ワイドスクリーンで見るモスラの

スマホ以前に…

その場のノリや一時の気まぐれで〝やらかし〟て、一生モノの後悔をするのは、古今東西変わらぬ人間のサガといえる。また「悪事千里を走る」とは古からの警句だが、今時は千里どころか、自分の呟いた軽口が地球の裏側にまで瞬時に届いてしまうから恐ろしい。〝タイムラグ〟などあってないような昨今。十四万八千光年隔てた宇宙とのメッセージ交換もそうそう遠いものではなくなるのだろう(この表現、わかる人にだけ響け)。 このnoteに綴る雑感にしても、送信するまで「この内容で大丈夫だろうか…この文体で誰か

たかが〝子供の宿題〟と軽んずる勿れ

学校に提出した自由研究の〝所有権〟をめぐり、学校と生徒が最高裁にまでもつれ込むほどこじれている、という話。 私事であるが… 小学校を卒業する頃、クラス担任が生徒全員に原稿用紙30枚くらいの〝論文〟を書かせるという無謀な思いつきを課した。ほとんどのクラスメイトたちは先生が例示した〝自分史〟をまとめるという形で乗り切ったのだが、私は〝論文〟というコトバを馬鹿正直に受け止め、当時興味のあった外国語の比較文法論(?!)を書き上げたのだった(私自身の〝過去史〟など書きたくも思い出し