見出し画像

行間に溢れる英国紳士の書斎の匂い。その圧倒的感化力ーハマトン『知的人間関係』書評

私の尊敬する日本の知識人の一人に、渡部昇一先生がいる。

英文学の世界に足場を置きながらも、様々な領域で多彩な文筆活動を行われてきた、文字通り「生涯現役」の知的巨人だった。

その渡部昇一氏の代表作と名高いベストセラー作品が、「知的生活の方法」だ。「クーラーは迷わず導入せよ」「蔵書を持て」といった極めて具体的な学生向けのアドバイスも含めながら、「知的生活」という新たなライフスタイルの素晴らしさが謳われている。

この「知的生活」という概念の出どころが、19世紀イギリスを代表するエッセイストであるハマトンの『知的生活』。その姉妹書に当たるのが、同じ著者による本書『知的人間関係』である。

『知的生活』が「様々な人物に当てられた手紙」というスタイルをとっているのに対し、本書はエッセー風の文体である。いずれも章ごとに内容がコンパクトにまとまっており、電車の中で隙間時間に読むのにぴったりの「一口サイズ」だ。扱われるテーマは「恋愛」「家族」「父と息子」「友情」といった身近なテーマから、「言語」「芸術」「宗教」など多岐にわたる。一般的な意味での「人間関係」にとどまらず、そこに出現する様々な文化についても話題が及ぶため、本書の守備範囲は『知的生活』のそれとほとんど変わらない。

読書の際には通常「一気読み」を好む私だが、この本に関してはなかなか読み進まなかった。文章の展開が論理的ではないし、出てくる具体例が現代日本とは時代も地域も異なるところでの話なので、頭に入って来づらいのだ。新書速読に適した「情報摂取型」の読書スタイルでは、本書を味わいつくすことはできない。

そこで私は一度、自分の焦り心を捨ててみた。

その上で、ハマトンの綴るエッセー風の文体の襞の中に潜り込んでみた。

するとまるでタイムスリップしたかのように、ハマトンが見ていた知的英国紳士の書斎に入り浸る幸福を味わえるようになったのだ。

私はむしろ、そこにこそ、ハマトンの「知的生活」のあり方を垣間見た気がした。

富には二種類の利点がある、とハマトンは語る。知的な面での利点と、物質的な利点である。大抵の人間はどちらかを選ばなければならない。前者を追求すれば精神的な豊かさを手に入れるが、後者を追求した者は「俗物」と呼ばれる。ハマトンの語る知的生活は、この「富」や「豊かさ」のイメージが密接に関係している。

教養とは、心の豊かさだと思う。

現代社会においては、資本主義の進展によって驚くほど「富」の総量が増加した。その結果として、大量の「余暇」が生み出された。ある意味、ハマトンの時代の「貴族」にみんながなれるような時代だ。だが、この「余暇」の埋め方に苦労しているのが現状かもしれない。

私は夏休み以来ずっと、「読書の意義とは何か」と考えてきた。夏休み期間中に骨太の本を読み解くのに大量の時間を投入し、それなりの満足感を得たが、大学の授業が再開してからはその感覚を徐々に忘れていった。「本なんて読んだところで時間の無駄さ」と思っている自分が、心のどこかにいた。本書を読んでいる途中、何度もその思いが頭をもたげた。「百数十年前のイギリスにおける人間関係に関する詳細な情報を得たところで、何の役に立つのか?」「この、要点が掴みづらいエッセーに時間を割くくらいなら、もっと成果に結びつく努力をした方が良いのではないか?」「というか、この本の要点をまとめた文章がどこかに転がっているのではないか?」

あまりにも浅はかだった。私の抱いていたこのような認識こそ、「知的生活」を妨げる最大の障害だったのだ。

知的生活は、「無為」である。それは「余暇」に行われる。言葉を変えれば、「遊び」である。(もちろん、ホイジンガの用いた意味においてだ。)

だが、だからと言ってそれは「無価値」ではない。むしろ無為なるがゆえに、物質的世界におけるあらゆる達成を凌駕する価値を、豊かさを人間にもたらす。

読書をしながら精神の世界に遊ぶ際には、自分の頭の中に渦巻くあらゆる思い計らいを捨てて、賢人の語る言葉の奥へと没入しなければならない。そこにおいて初めて、本の中に偉人が立ち現れ、時空を超えた邂逅が実現する。夏休み中、私は岩波文庫ばかりを読んでいたが、そのような認識を持つ私にとって読書体験は「偉人学園」入学と同じ意味を持っていた。教室を訪れるたび、偉人が教壇に立っている。そして、贅沢極まりないことに、授業は一対一で行われる。これ以上に豊かな時間を経験することが人生においてあり得るだろうか? 古代ギリシアの賢人セネカの言葉によれば、この経験こそが人間にとって最高の喜びである。セネカにおいては、古代ローマに君臨した帝王アウグストゥスでさえも、忙しさの中でこの喜びを見失った哀れな働きアリだ。

読書には様々なスタイルがある。だが、字面を追っているだけでは読書とは言えない。没入感なき読書は読書ではない。読書は精神によって経験されなければ読書ではない。精神の特徴は、ベルクソンの言うように「持続」である。集中の持続によって人間は精神的になり、次第に本の「奥」に広がる智慧の世界に誘われていく。その結果、自己認識が読書する前と後では変容を遂げている。読書する前とは、根本的に異質な自分になっているのだ。

私は本書を読み切る経験を通して、自分の読書に対する考え方に大きな反省を促されることになった。

この記事では本書の要点をまとめて紹介することはしない。本書じたいが要点をまとめるのに適した書物ではないし、人によって心に刺さる部分は違うからだ。

本書の価値はむしろ、行間にこそあると思う。

時空を超えて漂ってくる英国紳士の書斎の「匂い」が、読む者を感化するのだ。

私の主観的な感想が多くなってしまったので、「読書」に関して述べられた面白い箇所を一つだけ紹介して締めくくりたい。ただの読書ではなく、「外国語の読書」に関する論考である。

ハマトンは外国語学習の発展段階を五つに分けて分析する。第一の「パズルとして解読しようとする段階」から始まり、第二の「辞書の助けを借りる段階」、第三の「ある程度自力で解釈できるが不自然感が残る段階」、第四の「表現に対する感性はネイティブ的だがパラグラフの意味が一見してぱっとわからない段階」ときて、最終段階の「ページを見ただけで意味が大掴みに理解できる段階」が来る。

最終段階は、もはや母国語でも難しい。これはつまり、「本を読む」よりも「本を見る」境地に達していると言うことではないか。

だがよく考えてみると、自分がある程度知っている分野に関する本を読むときには、パーッとページをめくるだけである程度論旨を掴めてしまうことがある。キーワードの配置を視覚的に追うことで、大体の論の展開を掴むことは不可能ではない。と言うより、意識的にしろ無意識的にしろ、私たちはそうした認識を使いながら文章を読んでいる。とく書かれた文章ほど、この意味での「視認性」が高いのも事実だ。

早く英語の本を「見る」境地に達したいものだ。そのためには、どれほどの読書量を積めば良いのだろうか、気が遠くなるが……。

しかし、「知的生活」を楽しむ境地を継続できれば、そう苦しい道のりでもないのかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?