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隣街から春日たちに寄せて

※※原作漫画、アニメ版、映画版の中身に触れていてネタバレもあるので全部見てから読んでください※※



『惡の華』。
原作漫画もアニメ版もとても好きな今作の、満を持して制作された実写映画版。少しばかり特別な想いを持って鑑賞させていただいた。
何故なら私は作品舞台のモデルである群馬県桐生市の隣、栃木県足利市で思春期を過ごした人間だからである。

海など望むべくもない、鉄が全て錆びている地方都市。
春日が仲村さんを乗せて自転車で走っていく渡良瀬川沿い。
足利は山だけに囲まれた地形ではなく、桐生とは異なる点も勿論多いが、客観視が難しくなるほどに自分の思春期を重ねたくなる要素がこの映画には満ち満ちている。

一つ例を挙げると秘密基地の焼失後、川沿いの暗闇に消えていく仲村さんが印象的だった。
田舎特有の、街灯が少なすぎて危険すぎる暗さ。
(このシーンの暗さは原作単行本11話の「あとがたり」に書かれている内容を彷彿とさせられる)
日本の都市部以外は全て同じだと思われるが、足利市内も夜になるとかなり暗くなる場所が多い。あの暗闇からは自分が中高生の頃、塾帰りに自転車で走った街灯の少ない街中を思い出させられた。

さて、映画を見る前は恐らく他の皆様と同様、教室をクソムシの海にするシーンを楽しみにしていたのだが、実際に見てみると自分の故郷を撮影したのかと思う箇所があまりにも多すぎるため(隣街だから当然といえば当然なのだが)屋内より屋外のシーンの方が印象に残っている。

特筆すべきは大雨の中、春日と仲村さんが逃げ込んだ場所である。
原作とアニメ版ではただ地形的に雨宿りがしやすい場所というだけだったのに、何故か映画版では桐生が岡遊園地の入り口が使われている(映画内では名前は「ひかり児童遊園地」とされている)。これは現地を知る人間としては最高の選択に思える。
桐生が岡遊園地は隣接する動物園と共に、地域住民から親しまれているレジャースポットである。その手頃な規模と利用料金の安さで、特に幼い子連れ家族に人気が高い。仲村さんはともかくとして、春日や佐伯さんが幼少期に親に連れて行かれていることは想像に難くない(かくいう私も幼少期に訪れた記憶がある)また、高台に位置しているため「山の向こう側」を目指す人間が歩を進めた時に遭遇する場所としては間違いがないと言える。
「向こう側」を目指す途中で、幼年期に親子ともども訪れた場所が登場するのは非常に示唆的である。

そして、夏祭り。
桐生や足利等いわゆる両毛地区出身の人間の中でも、惡の華に魅せられるような暗黒の思春期を送ってきた者たちにとっては、夏祭りの中心となる八木節にはあまり良い思い出が無いのではないだろうか。
(足利では、八木節は運動会や尊氏公マラソン大会など体育会系のイベントで見かけることが多い)
この街のすべてのクソムシども……。
両毛地区出身者として八木節を聞くとルサンチマンが爆発しそうになるが、だからこそ、それゆえに、映画として夏祭りのシーンは最高の仕上がりになっていた。
陽のあたる世界の主題歌たる八木節は、2人の一世一代の大口上の前座でしかない。
アニメ版ではごくわずかな描写しかなかった夏祭りを、6年の時を経て最高の形で見ることができて、「向こう側」に連れて行ってもらえたような気持ちにさえなれた。

また、やぐらの上で春日を突き落とした仲村さんはライターに火をつけようとするが、なかなか火がつかない。
カチカチと何度も点火を試行するシークエンスは映画冒頭でも登場する。
圧倒的支配力を持つファム・ファタール、仲村さんの「揺らぎ」が透けて見えるような演出は、桐生が岡遊園地の入り口と同様、映画版オリジナル要素の中で心に残ったものの一つである。

このように追加要素も大変に素晴らしく、漫画原作映画の中でも出色の出来に仕上がっていると感じた今作だが、惜しまれるのは常磐さんとの日々を語る尺が足りない点だ。
映画という時間の限られた媒体で話をまとめなければならないため、中学生編は高校生の春日の回想という形で語られる。この試みは概ね成功していると感じた。ただ、春日が常磐さんの幽霊を殺すと宣言するシーンがカットされているのは非常に残念だった。このシーンを入れるため、高校生編をしっかりと描くために2部作の映画にしてほしかったとさえ思う。
しかし、春日の生真面目さにより常盤さんにはきちんとした告白がなされ、「惡の華」は消滅。「春日編」は清々しい終わりを迎える。海辺のシーンもとても素敵だった……思春期の少年少女が自分史の一つの時代に区切りをつける。青春映画の一つの完成形と言える。

そして先程「春日編」と書いたのには明確な理由がある。本作に繰り返し付記される「今、思春期に苛まれているすべての少年少女、かつて思春期に苛まれたすべてのかつての少年少女に捧ぐ」というメッセージが、エンドロール後のラストシーンでも形を変え、提示される。
思春期に懊悩を抱く者は遍在し、海の見える土地でも惡の華は咲く。
私は八木節の勢力圏、両毛地区出身者としてこの作品を味わったが、そのラストからも今作が届けたいと考える人物像、地域は狭く限定されたものではないことが分かる。
今作は今この文章を読むこととなった方には必ずや、素肌に爪を立て抉られるように、記憶のいずこかに痕を残すものとなることだろう。

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