アンサンブル・サビーナ まちづくりコンサート
豊中市蛍池にあるアンサンブル・サビーナによる、1時間ほどのミニ・コンサートへ行ってきた。2006年から定期的に開催されている管弦楽の「まちづくりコンサート」。蛍池公民館と千里文化センター「コラボ」との協働で開催されているそうで、今回が120回目だとのこと。母体であるイタリア生活文化交流協会は、2004年の発足というから今年は20周年だ。
イタリアと日本の音楽家による「友情のサビーナ・オーケストラ」も結成されており、大きなホールでのコンサートにも何度か行った。シンフォニーホールのときには、公演前の共同練習に参加する青少年を募集された。ちょうどうちの子が吹奏楽をやっていたため、世界的な演奏家に指導してもらい、一緒に舞台にも立たせてもらった。ほんの短い期間だが貴重な経験だったろうと思う。
先にお断りしておくが、子どもと違って私は絶対音感どころか、カラオケすらうまく音程をとれないし、楽譜は読めないし、ピアノは一本指でしか弾けない。そういう人間が批評するのは僭越極まりないのだが、サビーナのコンサートが心地よいのは、皆さんが眉間にしわ寄せるのでなく、生き生き、のびのび、楽しそうに演奏されていることだ。
クラシックというと音楽室にあったベートーヴェンの額縁を思い出す。彼がさまざまな苦悩を抱えながら作曲を続けたことは理解するが、あの肖像画のおかげで、クラシックにはどうも小難しいイメージがつきまとう。
でも、そうではない、オペラだって高尚な上流階級の文化ではなく、庶民が日頃の思いのたけを発散するような場なのだ、とあとで教えてもらったし、プログレッシブ・ロックのようにクラシックとの間で融合や越境が見られるジャンルも存在する。
さて、いわゆるポップスから歌詞が死滅して久しい。はっぴいえんどやサザンのように日本語を変容・分解させるような試みは、それはそれとしておもしろいと私は思う。しかし、今や解体し尽くされて、カタルシスもノスタルジーも何も感じられない歌詞では、声を楽器の一つとして使っているだけのように見える。
サビーナのコンサートでは、歌詞のある曲も含め、しっかり時代背景や作者の意図を説明してもらえるので、感情移入しやすい。だから、聴いていてすぐ涙が出てくる。困ったものだ。
楽曲をネットで聴く時代になって、アルバムのジャケットや解説・批評というものが死滅しつつある。ちなみにMTVの隆盛以降、代わりに動画が必ずセットになったが、動画は別に論じないといけないような気もする。
だから、純粋に音だけを聴いて感動できるものが本物だといわれれば、そうかもしれない。ただ、「一粒で二度おいしい」ではないのだが、一度聴いたその後が肝心だと、自分は思っている。
ジャケットを眺めたり、解説を読むと「そんな音が入っていたのか、歌詞はそんな意味だったのか」という発見がある。書物でいえば編集者の目線とも重なるような。そういう二度目以降の聴き直しの過程こそが音楽鑑賞の醍醐味だと、私は感じてきた。
サビーナのコンサートでは、誰もが知る曲が多く、そこに選ばれた画像と解説が必ず付いており、さらに音楽という文化と人権や平和とのつながりにもふれられている。
ところで、20世紀末、国連が「人権教育の十年」と銘打ったこともあって、「人権文化」という言葉が広められた。「人権という普遍的な文化」を縮めた用語だが、私にはなかなか呑み込めない概念だった。芸術文化・生活文化という分野を示すのではなく、人権を文化のように根付かせる「人権文化運動」のことなのだと、やがてわかった。
ただ、人権運動団体がそれを語ると、人権確立という目的のために音楽や美術といった文化を利用するかのような印象が、どうしてもつきまとう。
そういう、人権の側から見る「人権文化」が多くて、文化の側から見る「人権文化」が足りない。後者の方が根付いてこそ本物だし、一つのお手本になるのがアンサンブル・サビーナだ、と私は考えている。