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優しいとはどういうことか

まだ暑い東京よりこんばんは。
前から考えていたことに、少し新たな目線が加わるような気持ちになったので、書き記しておこうと思います。
前から考えていたこと。
それは、優しいとはどういうことか。

どうしてこういうことを考えていたかというと、starryeyeはありがたいことに日ごろ優しいと言ってもらえることが比較的多いのです。
が、そういわれることに、自分ではなんとなく小さな違和感をずっと覚えていて。
でも、長いことその違和感を上手く言葉にできないでいました。

新たな目線が加わるきっかけは、友人のFacebookの投稿でした。
noteもやっている彼の記事はこちらから。

彼の考えでわたしに刺さったのは、「自分のために何かをしてくれる人」を優しいひとだと思っていた、というところ。

わたしはわりと周囲がしてほしそうなことに気づくのが得意です。
その場に物理的に足りないものだったり、空気的に足りないものだったり多すぎるものだったり、そういうものことに気づくのが早く、それをカバーするのが得意です。
そこを優しいと言われていることが多いのかな?と考えたときに、わたしの中でそれは優しさではないと思い至りました。
それは単に、「察しが良い」というだけなのです。

もちろんわたしも見返りを求めて行動しているわけではないですし(たまにはありますけど笑)、善意から行動していることの方が多いと思います。
でも、誰にでも善意から行動できるわけではないし、誰にでも優しくしているわけではないと思うのです。
だからむしろ、優しくなりたいなととあるバンドの歌詞みたいも思っている。
ほんとは優しくないからなんじゃないかなって思うこともある。
でも別のバンドは優しくなりたいと願う君は誰よりも優しいひと、と歌うから、また優しいってどういう姿だろうって思うのです笑

つらつら書きましたが、要は自分が思っている自分の姿とひとから見えている自分の姿が重ならない気がしてきっと不安で不思議だったのでしょう。
でも別にそれは重ならなくたって良いとも思っています。
他人の目線は結局他人の目線で、自分と同じように見えるとは限らないのだから。
そして、優しくなりたいなとはきっとこれからも思っていくのだと思います。
そう思いながら、察し良く生きていってしまうと思います。

今わたしが考える「優しいひと」は、ひとに分け隔てなく接することができるひと。
ひとを選んでしまうわたしは、そこに至るまでにはまだまだ道のりが長そう。
でも、それはそれでいいんだって、自分の分け隔てを認めてあげられたら、もう一段ステップアップかな。


Image by Peggy und Marco Lachmann-Anke from Pixabay

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