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42 〜世界を変えた男たち〜

「42」

メジャー・リーグ・ベースボール(MLB)の世界において、この数字は特別な意味を持つ。全30球団で永久欠番とされている一方、毎年4月15日には全ての選手がこの42番を背負う。
4月15日はジャッキー・ロビンソン・デーと呼ばれている。黒人初のメジャーリーガーとして知られる(*1)ジャッキー・ロビンソンがメジャーデビューを飾った日である。

『42 〜世界を変えた男〜』はこのジャッキー・ロビンソンを題材にした映画である(2013年公開)。この記事は当作品を観た上での私の感想であり、決意表明でもある。

※史実を元にした映画であるため、多少のネタバレにはご容赦いただきたい。

(*1) 厳密には1900年代以降の「近代MLB」における初の黒人メジャーリーガーというほうが正しい。

ジャッキー・ロビンソンの功績

まず、時代背景を説明したい。
ジャッキーがブルックリン・ドジャース(現ロサンゼルス・ドジャース)と契約したのは1945年のことである。
ローザ・パークスがバスで白人に席を譲るのを拒否して逮捕されたのが1955年、マーティン・ルーサー・キングがかの有名な「I Have a Dream」の演説をしたのが1963年、そして公民権法が成立したのがその翌年の1964年のことである。つまり、アメリカにおいて法の上での人種差別が撤廃される20年近く前の話であり、別の言い方をすれば人種差別が法律的にも公然と認められていた時代である。

レストランやホテルは黒人をはじめとする有色人種を受け入れず、トイレや公共交通機関の座席も分離されていた時代。
スポーツの世界も例外ではなく、州によって違いはあったものの、黒人が白人に混じってプレーすることを禁じているところもあった。そのため、当時アメリカにはニグロリーグと呼ばれる黒人のためのプロリーグがあった。選手のレベルはMLBと同等かそれ以上だったとも言われており、実際にMLBとのエキシビションマッチは勝るとも劣らない戦績だったという。しかし、彼らは同じチームでプレーすることを許されなかった。

ジャッキーがドジャースに入団してからも差別は続く。チームの中で1人だけホテルでの宿泊が認められなかったり、試合中に警官が現れ退場を命じられたりした。観客席からはもちろん、相手側ベンチからも誹謗中傷や暴言が飛び交う。チーム内でも、ジャッキーと一緒にプレーすることを拒絶する署名運動が起こった。

しかし、どんな理不尽な目に遭ってもジャッキーはやり返すことができなかった。なぜならそれがジャッキーの後ろに続く道を閉ざすことになると分かっていたから。彼が問題を起こせば「やはりニグロは野蛮だ」「これ以上門戸を開けば問題が続出するぞ」などと言われる。
さらに不条理に耐えるだけではなく、プロ野球選手として結果も残さなければいけない。彼が活躍できなければやはり「アイツらはプレーできない」と言われ、次の黒人プレイヤーが生まれにくくなる。加えて、「同胞」である黒人からの期待を一身に受けとめる必要もある。
差別だけではなく尋常ではないプレッシャーとも闘いながら、彼は初代新人王に輝く活躍を見せる。彼はプレーで結果を残し世界を変えた。全球団の永久欠番になるに相応しい偉業を成し遂げたと言えるだろう。

世界を変えた男たち

さて、ここからが本題である。
邦題では『42 〜世界を変えた男〜』となっているが、あえて私はこの記事のタイトルを『42〜世界を変えた男たち〜』とした。なぜならこれから見ていくように「黒人初のメジャーリーガー」はジャッキーひとりでは誕生しえなかったからである。
実は「黒人初のメジャーリーガー」は公民権運動のような激しい闘争の末に生まれたものではない。当時のドジャースの社長でありゼネラルマネージャーであったブランチ・リッキーの英断に依るところが大きい。
ブランチは以前から黒人をチームに招き入れることを画策していた。それにはいくつかの理由があった。
第二次世界大戦出兵による選手不足を補うため。今後中産化が進むであろう黒人マーケットを掴むため。そして彼自身が人種差別に不条理を感じていたため。
ブランチが大学チームの監督をしていた際に、チームにいたチャールズ・トーマスという黒人選手がホテルの宿泊を拒否された事件があった。そのときに感じた不条理をずっと持ち続けていたという。
人種差別撤廃に否定的だったコミッショナー、ケネソー・マウンテン・ランディスが1944年に亡くなり、新たにA.B.ハッピー・チャンドラーがその座について風向きが変わったのを機に、ブランチはジャッキーと契約を結ぶ。
これは当時の状況を考えればなかなかリスキーな決断であった。ジャッキー個人はもちろんのこと、黒人を迎え入れたチームに対しても白人から批判が相次いだ。オーナー会議ではドジャースを除く全15球団がジャッキーがMLBでプレーすることに反対し、ジャッキーを出場させるなら対戦を拒否するというチームもあった。ジャッキーだけではなくチーム全体がホテルで宿泊を拒否されたり、球場の使用を拒否されることもあった。当然チーム内でも「アイツがいるせいで俺たちまで不利益を被る」と不満を抱いていた選手がいたであろうことは想像に難くない。しかし、ブランチはそういった白人からの批判や不満に屈せず、ジャッキーがプレーできる環境を整えた。ジャッキーのためにスプリングトレーニングの地をフロリダからキューバに移すことまでしている。ブランチの存在なくして「メジャーリーガー、ジャッキー・ロビンソン」は生まれなかったと断言していいだろう。

世界を変えるのに貢献したのはブランチだけではない。差別やプレッシャーに耐えながらプレーし続けるジャッキーの姿に動かされたチームメイトたちもまた、世界を変えた一員だと私は考える。特に印象的なのはピー・ウィー・リースである。彼は当時ドジャースのキャプテンであり、前述のチーム内での署名にも参加しなかった。彼の地元は人種差別が根強いケンタッキー州であった。そのケンタッキーに近いシンシナティでの試合の直前、黒人とプレーすることを快く思わないファンからピー・ウィーは脅迫の手紙を受ける。しかし、ジャッキーが毎日のようにそんな脅迫にあっていることを知ったピー・ウィーは勇気ある行動を起こす。ジャッキーに対する大ブーイングの中、グラウンド上でピー・ウィーはジャッキーの肩に腕を回し球場全体を見渡したのだ。
映画の中でも出てくるが、当時も白人が皆黒人のことを嫌っていたわけではない。人種差別に対して疑問を感じている人もいた。しかし、それを公にすると「ニガー・ラヴァー」などと馬鹿にされ、非難される空気があった。そんな中でピー・ウィーが衆目の前で連帯を示す行動をしたことは大きな意味があったと考える。

変わらないといけないのは誰か

こういった白人チームメイトの変化を見て、私は当たり前のことに気が付いた。人種差別の歴史を学ぶとき、いつも被差別者のこと、彼ら彼女らの努力・運動ばかりに注目していた。しかしどれだけ差別を受けている側が頑張ろうとも、「差別している側」が変わらない限り差別は無くならないのだということに。
そしてもう一つ、私はこの映画をどちらかというと白人の立場から観ていたことに気が付いた。考えてみれば当然である。今でこそ海外に住み「マイノリティ」の立場になっているが、ここまでの人生、私はほとんど「マジョリティ」として過ごしてきた。日本に生まれ、日本で育ち、両親ともに日本人で、当然のように日本語を母語とし、身体的にも精神的にも障害がなく、ヘテロセクシャルの男性で、性自認も身体と一致している。きっとこれ以外にもあるだろう。自分が「マジョリティ」であることは気付きにくい。それが「普通」とされているのだから。

しかし、TwitterなどのSNSの発展に伴い、これまで届かなかった「マイノリティ」の声がたくさん届くようになった。そして自分の「マジョリティ」性にも気付くことができた。差別を受けたり、抑圧されたりしている人たちが世の中を変えるために声を上げ、闘っている姿をよく目にするようになった。同時に、残念ながらそういった人たちに対して冷笑したり罵詈雑言を浴びせたりする「マジョリティ」もしばしば見かけた。

「マイノリティ」が必死に声をあげて世界を変えようとしているが、実際に変わらなければいけないのは「マジョリティ」だ。「マジョリティ」も当事者なのだ。
しかし「マイノリティ」の肩を持とうとすれば一緒に非難してくる人間がいる。いじめを止めようとすれば、その人が今度はいじめの被害にあう。よくあることである。だから多くの人が「傍観者」になる。この「サイレント・マジョリティ」が現状を是認する。

私はもう見て見ぬ振りはしたくない。

ブランチ・リッキーのようなことはできなくとも、せめてピー・ウィー・リースのように、例え自分が一緒に罵倒されることになろうとも、正しいと思えることにしっかりと支持を示せる人間になりたい。

これはあらゆるマイノリティに対する、私のアライ宣言である。

[参考文献]
“We Are the Ship ~The Story of Negro League Baseball~” by Kadir Nelson
“Jackie Robinson: The Life and Legacy of the Star Who Broke Major League Baseball’s Color Barrier” by Charles River Editors


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