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ひとといる、ひとりといる

元々誰かとずっと一緒に居続けるのは苦手な性格だった。たぶん、生来のものだ。家族と住んでいた間も、常に家の中には誰かしらが居て、常に話しかけられたり気にかけられたりしていた。それが安心材料になっていたんだということを、一人暮らしを始めてから痛感した。けれど、当時はうっとうしくてたまらなかった。思えば何か嫌なことがあるとすぐ、「ひと」から離れてひとりで布団にくるまってうだうだしていることが多かった。あの逃避行動も「ひと」から逃れたい、目線から外れたい願望の表れなのだろうか。小さい頃はおやつやらご飯やらの目に見えるエサであっさり呼び戻されていたけど。

小中でも仲のいい友達はいたし、休み時間に話し相手に困ることは少なかった。それでも「自分はどこにでもいて、どこにでもいない」感覚はつきまとっていたように思う。
休み時間の教室、修学旅行の自由時間、知り合いの顔を見つけた帰り道。楽しそうにしている友人やクラスメイトの姿は見える。けれど、自分がその場に混ざっていいのか分からない。混ざって同じように笑いあっているイメージが湧かない。
だから、小学校でも中学校でもよく学校をうろうろと歩き回っていた。あてもなく、目的意識もなく。旅行先ではいくつかのコミュニティに出たり入ったりしていた覚えがある。未だに観光や外出をするときに必要以上に歩き回ってしまうのは、このときの意識や行動が僕の中のどこかにひっかかっているからなのかもしれない。
小学校高学年になって本を、図書館の存在を知ると、今度は打って変わってその中にこもる時間が増えていくようになる。小学校の時、図書館の中にある興味のある小説はほとんど読み終えていたんじゃないだろうか。中学は(まだマシだったとはいえ)”いわゆる”公立中学だったので、ますます図書館にこもっていくようになる。その時近代文学を少しでも読んでいれば、もう少し今楽だったろうに、というのはともかく。
こうした本たちは、自分をどう周りと関わっていけばいいか分からない世界から一時離してくれた。影響を受けすぎて一週間引きずった本も、将来の専攻を決めた本も、大人になっても買い続けている児童書も、この時期に出会った。「ひとり」の時間を支えてくれた裏のコミュニティ、とでもいおうか。ひとりでそうした物語に向き合ってほっとしていた時間、好きなモノに囲まれることで心の平穏を保っていた時間は僕の人生の中でかなりの割合を占めている。時間換算なら多分人と話してる時間より長い。

別にここまで自分の陰キャエピソードをつらつら書いてきたわけではない。いや別に否定はしないが。陽の気こわい。問題は、高校からもそれまでも、人との関わりや対話が嫌いだったわけではない、むしろ好きだったということだ。

高校が顕著だったが、自分と価値観が近しい人に囲まれると、人間は自分の頭の中をさらけだしたくなるものらしい。元々おしゃべりな方ではあったが、高校生活の大部分は誰かと話すこと、関わりを持つことに費やしていた記憶がある。それまでになかった経験で、今思い返しても幸せだった。勉強や部活での知識・技術の習得はおいといて。トラウマだよ高校数学。
けれど、やっぱりそれによって満たされるものと削られていくものがある。僕の場合、休日にほとんど学校との繋がりが断たれていたから、家でのコミュニケーションしかなかった環境こそなんとかなっていた部分がある。いくら楽しいコミュニティにいたからとはいえ、365日それに囲まれていれば無条件に幸せだというわけではないのだ。休日にほとんど友達と遊んだ記憶がない切なさを差し引いたとしても。大好きな食べ物をさすがに毎日3食は食べられないことと似ている。
逆に、自分の身を削るくらいならそうしたコミュニティには全然関わらんでええ! 人生は冒険や! 俺は俺の人生を生きるんや!……というマインドだ、というわけでもない。2020年の某コロナ禍以降、今までのコミュニティが断たれて実家や下宿で軟禁されるしかなかった期間は本当に大変だった。しかもそれが幾度となく訪れる。ひとりでいるしかなくて、自分の中にある深い深い深淵をのぞき込みのぞき込まれする時間。元々考え込むことは多かったけれど、自分の中にいろんなものを持ち込むことで収めてきたことがたくさんあったけれど、このタイミングでそれらが一気に膨らんでゴジラになった。今は呪いが解けて少しずつ楽にはなっているけれど、こうして肥大化したひとりをなんとかするには、やっぱり外部からのアプローチが必要なのだ。たまには好きなものを食べたい。肉!飯!

こうして「ひと」と「ひとり」に翻弄されてきた僕、今後もそのままの環境に置かれることは想像に難くない。人間が社会的動物である限り、そして考える葦である限り、他者と自己と対話を重ね続けることはもはや「生きる」こととイコールであるといってもいい。少なくとも自分にとってはそうだ。
こうしたことを考えて、一度広く社会を見る選択をしたのは、今の自分にとっては良い経験になるのかもしれない。皮肉にも、大学生になるまで忌み嫌っていた「社会人」「民間企業」という道を自ら選び、それに多少なりとも満足している自分がいるのだ。
ただそれは、今までの人生を内省したときの共通点(太字を見よ)が見えてきたから。将来的に教員になりたいという思いは就職活動を通じてますます強くなったが(意図的な皮肉)、それまでに関わるものを広げておく意味では、あの長い1年も何かの意味があったのかもしれない。大学入学するときはこんなこと絶対やらないと思ってたのになあ(盛大な皮肉)……
「人嫌い」ではない以上、一度は憧れたアカデミアだけに身を投じるとそれだけになってしまうかもしれない、という思いはつきまとう。もちろん研究にもコミュニケーションは不可欠だし、先輩方はみんな自分の話を生き生きとされていて、その姿はやっぱりきらきらしている。いつかは戻ってみたい、とは思うけど、学び直しはいつでもできる……のかな。そんなこといってるといつまでもやらないやつばかりだから今の大学はこんなことになってるんですけどね(飛躍が過ぎる)。

右手にひとびと、左手にひとりを携えて、僕はここからの道を進んでいく。どちらも捨てられない。どちらかに傾きすぎてしまえば、いつか自分が倒れてしまう。目指せ人間やじろべえ。体幹鍛えなきゃ。ちなみに先日数ヶ月ぶりにプランク3分やったら次の日筋肉痛になりました。良い筋トレ教えてください。

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