見出し画像

魂のレヴューで天堂真矢は何を得たのか?~覚悟としてのトマトと西條クロディーヌ~

瀬戸大橋
kanadesyuko622@gmail.com
https://twitter.com/62245152


1.序論

 本稿は天堂真矢というキャラクター(舞台少女)が『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』(以下『劇ス』)においてトマトを食べることでどう変わったのかを考察するものである。

 天堂真矢は『劇ス』においては大場ななに次ぐ(*1)少し特殊な立ち位置にあるキャラである。

 その理由は九九組の中で唯一大場ななの「列車は必ず次の駅へ。では舞台は? 私たちは?」という問いに「舞台と観客が望むなら私はもう舞台の上」という答えを出し、「皆殺しのレヴュー」で上掛けを落とされていなかったからである。舞台に立ち続けるという意思を表し、さらに何を求められたのかということを皆殺しのレヴューの段階で既に理解していることが彼女が特殊な立ち位置であることを表しているだろう。となると、劇場版で印象的に描かれているトマトを齧る行為は彼女に何をもたらしたのだろうか。本稿では天堂真矢の行動がトマトを齧る行為によってどう変わったのかを確認するため、まずトマトの意味を考察し、その後に「魂のレヴュー」について考察したい。


*1 大場ななは舞台少女たちに気付きを与えたり、誘導したりするメタ的な「役」を持つキャラであり、一番特殊な立ち位置にいるというのは改めて言うまでもないだろう。この「役」については(おそらく)他の方が考察していると思われるし、本論からは逸脱してしまうのでここでは割愛する。

2.トマトの意味

 トマトの意味について、まずは九九組の言動から考えていきたい。筆者は「トマトを齧る=覚悟を決める(*2)」ことであると考える。

 一番わかりやすいのは露崎まひるの「競演のレヴュー」における「決めたから。舞台で生きていくって」という発言だろう。これがまだトマトを齧っていない神楽ひかりからの「どうして舞台に立てたの?」という問いへの答えであることを考えると、トマトを齧ることが覚悟を決めることであるのは決して無理な考察でないだろう。

 また、「最後のセリフ」の前、トマトを齧っていない愛城華恋が「舞台ってこんなに怖いところだったの?」と舞台に立つことに対して恐れを抱いており、そしてそれに対してひかりは「そうよ」「私は演じ続ける」と返すところからもトマトを齧ってるかどうかで覚悟(この場合舞台に立ち続けるという覚悟) を決めていると推察することができる。

 ここで注意したいのは、トマトを齧ることが必ずしも「舞台に立ち続ける」覚悟を決めることではない、ということだ。愛城華恋や神楽ひかり、星見純那の場合はそうであろう。しかし、天堂真矢は冒頭の進路希望面談のシーンで今後も舞台に立ち続けるという話はしている。さらに花柳香子も「京都で世界一になろう思います」と発言、西條クロディーヌ、石動双葉なども同様の発言をしていることから、彼女らはトマトを齧る前から既に舞台に立ち続ける覚悟ができていることがわかる。


*2 これ以外にもトマトを齧ることには「舞台少女(舞台人)として生き返る」という意味合いもあると考えられる。皆殺しのレヴューの最後、大場ななの「私達もう、 死んでるよ」 というセリフは『スタァライト』という一作品(あるいは一公演)に固執している状態を表しているのではないか(ただし天堂真矢の場合、舞台少女としての個性がない(=神の器になろうとしている)ことを指しているのではないか?)と考えられる。他にも魂のレヴュー前の西條クロディーヌの「あんたとのレヴューに満足して朽ちて死んでゆくところだった」という発言や、トマトを齧ったシーンから愛城華恋以外から「スタァライト」という言葉が出てこないところからも「舞台少女としての死=スタァライトへの固執」というように考えられるだろう。

3.トマトを齧ることで得る覚悟

 ここからは魂のレヴューを通して、天堂真矢がトマトを齧ったことで何の覚悟をしたのかを考察していく。まずトマトを齧る前から天堂真矢が舞台人としての理想の形としていたであろう(*3)「神の器」をなぜ目指すようになったのか考えたい。


*3 もともと天堂真矢には舞台に立ち続ける覚悟があり、トマトを齧ることで目指す演者像が「神の器」に変わったことは考えづらいため。

3- 1 天堂真矢はなぜ「神の器」を目指したのか?

 天堂真矢は神の器のことを

  • 演じるべき真の役であり、究極の舞台人の姿

  • あらゆる舞台、主役を映し出すもの

「されど喝采の中に見えてきた。演じるべき真の役、究極の舞台人の姿。それがこの器。あらゆる舞台、あらゆる主役を映し出す、神の器」

  • 神の器は感情や本能とは無縁であり空っぽである(=私=天堂真矢)

「感情とも本能とも無縁のこの空っぽの器こそ、私」

としている。

 元々天堂真矢は演じる時、自分に役を憑依させる(=神の器によって映し出すように演技をする)ような舞台少女ではない。天堂真矢という舞台少女は自分がキラめくそのために役を演じる舞台少女である。つまり演じている時の天堂真矢は「役者:天堂真矢+役」という状態である(*4)。

 神の器を目指すということは、天堂真矢という器に役を流し込むように役を自分に憑依させて演じること、つまり演じている時に「天堂真矢」という存在は消滅し「役」だけの存在になることを意味している。

 なぜ天堂真矢が演じる時に自分の存在を消滅させることを目指す(神の器を目指す)ようになったのか? それは周囲から寄せられる天堂真矢への期待、素の天堂真矢は醜いものであるとの自己認識、そして西條クロディーヌの疑似的な死によるものではないかと推測する。これらは以下のセリフに現れている。

  • 周囲から天堂真矢への期待

「人は言った。私(=天堂真矢)をサラブレッドと。天才と」

  • 素の天堂真矢は醜いものであるとの自己認識

「なんと醜い感情に塗れたこんな姿」

  • ライバルだった西條クロディーヌの舞台少女としての疑似的な死

「あんたとのレヴューに満足して、朽ちて、死んでいくところだった」
「そなたは見事に演じてくれた。私を追い立てるライバルの役を」

 特に西條クロディーヌの死は天堂真矢にとっては大きい。素の天堂真矢の存在を舞台上で肯定することは、天堂真矢を追いかけ、一緒に高みに向かおうとする西條クロディーヌにしかできないからだ。

 この3つの状況から、天堂真矢はより多くの人に受け入れられる(認められる)ために演じる時には醜い自分という存在を消すようになったのではないかと考えられる。



*4 例えば『オーバーチュア』(アニメ前日譚の漫画)2巻8幕「劇場のゴースト」では「どんな感情も経験もキラめくための武器になる」とモノローグがある。あくまでも役は自分がキラめくための手段なのである。

3- 2 西條クロディーヌの働き

 ここからは魂のレヴューにおいて「生き返った」西條クロディーヌの行動について確認する。

  • 序章~ACTⅢ

→神の器を目指す天堂真矢の否定(=空っぽの器が天堂真矢であることを認めていない)

「あんたが空っぽなら俺が求めた魂はどこだ?
俺が賭けをした相手は誰だ?」
「空っぽの神の器? 笑わせてくれるわ。
あんたは神の器でも空っぽでもない。
驕りも誇りも妬みも憧れもぱんぱんに詰め込んだ欲深い人間よ!」

  • ACTⅣ

→西條クロディーヌによる素の天堂真矢の肯定

「もっと見せろ天堂真矢、観客はそれが見たいのよ」
「あんた、今までで一番かわいいわ」
「あなたでなければ暴かれることはなかった」「舞台から離れられない」
「憐れな道化」「違う! ライバル」

→天堂真矢と西條クロディーヌは互いに高めあう存在であることの再確認

「あなたがいればもっと高く」「あんたが私をより美しく」
「英雄には試練を、聖者には誘惑を、わたしにはあんた(貴女)を(*5)」
「ライバルのレヴューは終わらない。永遠に」
「私たちは燃えながらともに堕ちていく焔」


*5 英雄になるためには試練が、 聖者になるためには誘惑が必要なように、私にはあなたが必要という発言(セリフ?)は多くの真矢クロ好きが「気絶」したようなシーンだったが、高めあう2人を端的に表したシーンだろう。

3- 3 魂のレヴュー

 次に天堂真矢の動きを確認する。

  • 控室(序章前)

→ 『すすめ!! あにまるウォーズ』を指し、西條クロディーヌに弱いところを見せる

  • 序章~ACTⅢ

→周囲への期待を背景としつつ「神の器」を目指すことを伝える(西條クロディーヌを超えて舞台俳優として高みを目指す)

「聖者には誘惑を、英雄には試練を、私には悪魔を」

  • ACTⅣ

→ 「神の器」を西條クロディーヌに否定されたことで怒り、傲慢な姿(=「醜い姿」) を見せる

「図に乗るな、西條クロディーヌ!」「奈落で見上げろ、私がスタァだ!」

→西條クロディーヌがいることで自分がもっと高みに登れることの再確認 

「あなたがいればもっと高く!」
「聖者には誘惑を、英雄には試練を、私には貴女を」

3- 4 天堂真矢にとってのトマト

 魂のレヴューの流れを確認したところで本題である「トマトを齧ったことで何の覚悟をしたのか?」について考察を行う。

 天堂真矢の覚悟、それは「舞台上で自分をさらけ出すこと(*6)」ではないかと考える。

 トマトを齧る前から天堂真矢は聖翔卒業後を見据えており、「舞台と観客が望むなら私はもう舞台の上」と言う通り、舞台の上だけでなく観客次第であらゆる瞬間が舞台であることを認識している。ただしレヴューが始まる前、控室のシーンでの西條クロディーヌとのやりとりから素の天堂真矢(*7)を見ることができる。この時天堂真矢が「ようこそ、舞台へ」と話していることから、天堂真矢にとって控室は舞台装置ではなく、舞台とは離れたところであることを示していると考えられる。そこでなら素を晒すことができるという天堂真矢のその時点での在り方を表している。

 先に舞台に上がった天堂真矢は神の器を目指していると述べたが、天堂真矢本人はそれを望んでいない可能性が高い。なぜなら神の器を目指す理由は周囲の期待と自分を肯定する存在の欠如という外部的要因によるものであり、自発的な理由ではないからである。魂のレヴューで行われていた賭けにも表れているが、賭けの内容(目の前で行われていること)よりも舞台の理に縛られている姿というのも天堂真矢が外部的要素に縛られていることを示唆していると考えられる。

 一般論として、これまで積み上げてきた自分の演技スタイルを変えるというのは相当な苦労・ストレスを伴うと思われ「もし演じる上で自分を出すこと(=以前からのスタイルで演じる)ができるならそのまま高みを目指したい(*8)」と考えるのは普通だろう。

 神の器を目指すことをやめ、これまでのスタイルでより高みを目指すために必要になるのは舞台上でも素の天堂真矢を晒し出すことだ。西條クロディーヌが「生き返り」、自分を肯定してくれることを確認した天堂真矢は、これまでのスタイルを取り戻す第一歩として西條クロディーヌに舞台上で自分を晒すことにする。その覚悟の現れがトマトを齧ることなのではないか、と考えられる。

 トマトを齧った後の魂のレヴューで神の器を目指すことを話している以上、トマトと自分を晒すことを関連付けることはできないのではないか? との声もあるかと思うが、天堂真矢には「誇りのレヴュー」のようにまず相手の様子を確認してから自分を見せる一面がある(*9)。このレヴューでも生き返った西條クロディーヌが舞台上で自分を出すことを肯定してくれること確認してから行動に及んだ可能性は十分考えられるため、そのような疑問は当たらないと考えている。


*6 ちなみに、天堂真矢は生トマトを嫌いな食べ物としてあげており、過去の自分を乗り越えるなんて意味も含まれているのかもしれない。

*7 「ひよこがかわいそうで……」「あんた本当に弱いわね」などが当てはまる。

*8 もちろん、卒業後には自分を肯定してくれる存在が近くにいないというのも天堂真矢の頭にはあるだろう。

*9 天堂真矢は誇りのレヴューの際に愛城華恋に対し、舞台に上がることへの覚悟を問うていたことから考えられる。

4.私たちは、ともに

 ここまで天堂真矢とトマトの関係を考察してきたが、『劇ス』はさまざまなモチーフ、パロディ、意図が入り混じる作品であり天堂真矢に焦点を当てた本論も、魂のレヴューだけに焦点を当てた論文と併せて読むと違った考え、結論が浮かびあがるかもしれない。本論が読者の考えと皆目違うこともあるかと思うがそこはご了承いただきたい。

 今回こんなに面白い企画を立てていただいた主催のさぼてんぐ氏、そして誘っていただいた副主催のりーち氏にまずは感謝を申し上げたい。スタァライトという作品は非常に考察しがいのある作品であり、天堂真矢好きとしてはこのような考察をまとめることで「天堂真矢にケリをつける」ことができたように感じる。もちろんスタァライトという作品が完結をしたわけでも、天堂真矢というキャラが退場したわけでもないが、誇りのレヴューで天堂真矢に恋してしまった筆者としては形あるものとしてまとめることで天堂真矢という存在をより深く知ることができた。それだけでこの考察をした価値があるだろう。そして皆様の抱く天堂真矢像に一石を投じられていれば嬉しい。

 最後にはなるが拙い、考察とも呼べないような本論を最後まで読んでいただいた読者の皆さんに最大の感謝を贈り、本稿の締めくくりとしたい。

参考資料

  • 古川知宏, 2021, 『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』( アニメ), オーバーラップ

  • 古川知宏, 2021, 『劇場版再生産総集編「少女☆歌劇 レヴュースタァライト ロンド・ロンド・ロンド」』( アニメ), オーバーラップ

  • 轟斗ソラ,2018, 『少女☆歌劇 レヴュースタァライト オーバーチュア』(2),KADOKAWA

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?