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舞台少女たちは何をどう演じているのか

トラス
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1.はじめに

 本稿をご覧になっている方は、ほとんどが『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』(以下劇場版)を観劇されていることと思う。

 したがって、すでに共有できているであろう作品への賛辞はおいて、本稿でどのような角度からとらえるのかを述べよう。

 劇場版にて、東京タワーの中で舞台の幕があがるシーンが描かれ、彼女たち九九組が舞台に立っていたこと、観客は「劇場」の我々であったことが種明かしされる。

 では、彼女たちは一体何を演じていたのか。「競演のレヴュー」を中心に、九九組が何を演じていたのか、そして本作において「演じる」ことがどのような位置付けになっているのかを考察する。

2. 競演のレヴューから見る本作の「演技」

 まず、なぜ競演のレヴューを題材とするのかについて。それは作中レヴューの中で最も舞台への直接的言及に富んでいるからである。

 よくあるフィクションにおける演技と本作における演技の差異から考察していく。演技、という単語を手元の『広辞苑 第五版』(岩波書店)にて確認したところ、以下の意味がある。

① 観客の前で、芝居・曲芸・歌舞・音曲などの技芸を演じてみせること、また、そのわざ。
② 体操などの競技で、選手が演ずるわざ。
③ いかにも本当らしくふるまうこと。

 フィクションで「演じる」「演技する」という表現が使われる場合は、戦うふり・従うふりなど、3つ目の「いかにも本当らしくふるまうこと」、という意味合いで使われることが多い。つまり、普通は何かを偽ること、嘘をつくことを意味することが多い。

 さて、一般的な「演技する」ことを踏まえた上で、競演のレヴューの台詞を追っていこう。

 競演のレヴューの演者である神楽ひかりと露崎まひるから、「演技する」方と「演技しない」方を見てみる。その場合、明らかに演技しない方はひかりであり、演技する方がまひるであろう。

 レヴュー曲『MEDAL SUZDAL PANIC ◎〇●』の1 コーラス(という言い方がレヴュー曲に通用するかは疑問があるが)が終わるとまひるがひかりを追い詰めるシーンとなる。そこでひかりに投げかけられる台詞は端的にこのレヴューでの「演じる」ことの内容を示している。

「どうして演技しないの?」「華恋ちゃんの舞台から降りたみたいに」「な
のにどうして降りたの」「一緒にいたら華恋が甘えちゃうから?」「ウソツ
キ」「本物の神楽ひかりを!」

 これらの台詞をそのまま解釈すると「嘘をついているときは演技していない」「本物の神楽ひかりを見せると、それがこの舞台における演技となる」となる。

 実際に競演のレヴューの落下シーンの後、今までの「華恋、すぐ甘えるから」という台詞とは全く異なる「怖かったの。だから(華恋から)逃げたの」という台詞がひかりの口から飛び出る。

 すなわち、競演のレヴューにおいて「演技する」ことは一般的な「いかにも本当らしくふるまうこと」ではなく、逆に「自分の中の偽らない姿を極大化して見せること」であるのだ。

 なお、ひかりが前述のように「本物の神楽ひかり」を見せた後、まひるもまた「演じてた」ことを告白する。しかしそれは自分を偽っていたという意味ではない。競演のレヴューの冒頭と最後で「やっと舞台に立てた……ひかりちゃんと」「演じたかったの。ひかりちゃんと」と、その言動は一致している、自らの偽らざる心を見せていることに注目してほしい。なので「大嫌いだった、神楽ひかり」というのも間違いなく真実(過去形なので今も大嫌いとは言っていない点だけは誤解しないようにしたい)である。

3. 作中他のシーンでの「演技」

 競演のレヴューにおいて「演技」がどういうものであるのかを確認したが、この理屈がこのレヴューの中だけでのものであろうか? ワイルドスクリーンバロックにおけるレヴューは単純に完全に独立したものが並んでいるだけであろうか?

 本編の他のシーンに目を向けて、「演技する」ことがどのように描かれているか、確認してみよう。

 まずは少し後のシーンである「魂のレヴュー」を見ていく。魂のレヴューもまた、「舞台」「演じる」ことに直接言及している場面の目立つレヴューであるためだ。

 競演のレヴューと異なる点として、「舞台人」「名も知れぬ悪魔」として真矢とクロディーヌの2人が出てくる点がある。

 ACT1の会話では舞台人は「この世のすべての舞台に立った」と言われている。18歳にもならない天堂真矢がすべての舞台に立つなどということは当然ありえず、故にここでの台詞はただの劇中劇とみなすことも不可能ではない。

 一方で、ACT2の終盤に注目すると、「舞台人」の述懐に「人は言った。私をサラブレッドと、天才と」という表現がある。天堂真矢との一致が見られる。一方で舞台人というキャラクターがいて、そういう設定である、と解釈することも不可能ではない。

 では、その少し前に「名も知れぬ悪魔」の「俺は、あんたのライバルだ!」という、より直接的な台詞についてはどうだろうか。魂のレヴューACT1〜3を単純な劇中劇ととらえるとき、「名も知れぬ悪魔」が「舞台人」とライバルである、と読み取ることはとりわけACT1、2だけでは困難であるように感じられる。であれば、これはむしろ西條クロディーヌ本人の台詞であると解釈する方が自然である。

 もう少し時間を進めて、ACT3のクライマックスを見よう。星を飛ばされた後の「名も知れぬ悪魔」――西條クロディーヌは今までの男口調から普段の口調になっている。つまりここでは間違いなくクロディーヌ本人として舞台に立っているわけであるが、ここで注目するのはそのことではなく、「交わした契約を忘れたの?」「空っぽの神の器? 笑わせてくれるわ」という台詞である。

 ここで彼女は、劇中劇の役にすぎない筈の「名も知れぬ悪魔」と「舞台人」の交わした契約を持ち出してレヴューの続行を宣言している。つまり、クロディーヌの中で「名も知れぬ悪魔」と自分とが連続していることがわかる。言い換えると、「名も知れぬ悪魔」はただの役ではなくて、クロディーヌの中で真矢との関係性など、自分自身を投影した姿である、と考えられる。

 一方で「舞台人」と真矢の関係はどうか。クロディーヌは「舞台人」の持ち出した神の器という概念を否定しながら、真矢の中にある感情を指摘しそして「ねじ伏せてみせる」と宣言する。

 こちらは、クロディーヌの中で「舞台人」と天堂真矢が連続していることを表していると考えられる。ただ、これはあくまでクロディーヌが思っていることである。真矢本人にとってもそうであるか、それを見ていこう。ACT4、役の衣装ではなく、通常のレヴュー服での対決の中で、真矢が感情に塗れた姿を醜いと述べている。

 つまりその逆、感情と無縁の「神の器」は実際に真矢の理想とする姿であるということが察せられる。よって、「舞台人」と真矢ともまた連続している、言い換えれば真矢の理想としていた舞台人としての姿を投影した姿であると考えられ、これもまた彼女の偽らざる姿の1つである(一方でACT4で「いつものあんた」と呼ばれる姿もまた真実の姿であることは間違いない)。

 よって、魂のレヴューの演者である2人も、自分自身の偽らない姿を見せていることがわかる。

 さて、少し時間を遡り、競演のレヴューの「前」、すなわち「怨みのレヴュー」の冒頭を見てみよう。

 ここではわかりやすく「壺振りの香太夫」と「鉄火場のクロ」という役名が出てくる。香子扮する「壺振りの香太夫」がいう「大事なお菓子箱」、それに対してクロディーヌこと「鉄火場のクロ」が「あの娘のことかい?」とからかうように尋ねる。それに香太夫が「あんたのせいでうちらは」と突っかかる。というやりとりになっている。ここで双葉の存在を即座に連想された方も少なくないのではないだろうか。

 実際にまだ「皆殺しのレヴュー」も始まっていないシーンを見返すと、クロディーヌが双葉が新国立第一歌劇団を目指す後押しをしていたことが純那から明かされている。また、香子がクロディーヌと2人きりになった時、何か言いたそうにしながらも結局口に出せない、といったシーンもある。これらのレヴュー以外のシーンと合わせると、「クロディーヌが自分と双葉を引き裂いた」という思いを、舞台に立って演じる中で表出させていると考えられる。

 今まではレヴューシーンを中心に見てきたが、レヴュー以外にも演じているシーンはある。最序盤、演技実習のシーンに注目しよう。このシーンでの愛城華恋が「普段は元気であるように装っているが、ひかりがいなくなってしまい、何を目指せば良いかわからなくなっている」ことを表していることは明白であろう。他方でもう1人の演者である星見純那にも注目する。「私は行かねばならないんだ、あの大海原へ!」という予告編にもあった台詞がある。この台詞が純那と何らかの関係がないか考えてみよう。

 純那は結果的に留学を選ぶが、それまでは「勉強がしたい」と国内の大学への進学を希望していた。しかしクロディーヌとの会話では「新国立を志望しないのか」と聞かれて、自分の実力に自信がない様子を滲ませている。逆に考えると、自分に自信があれば他の進路を希望していた可能性がある、ひいては国内での大学進学は本心からの進路希望ではないと考えられる。つまり本心では「大海原」と形容されるような、困難で未知の進路に純那が進みたがっていることの表れではないか、と推測できる。

 このように、1つのレヴューシーンにおいてのみでなく、作中全体のレヴューそしてそうでないシーンにおいてさえ、舞台少女たちは舞台の上で、自分自身の偽らざる姿をさらけ出している、すなわち、自分で自分を演じているのである。

4. まとめ

 本稿では劇場版作中の「舞台」において、舞台少女たちは「自分自身」を演じていることを、競演のレヴューを足がかりとして述べた。

 また作中の「演じる」というのは偽りを真実かのように振る舞うという意味ではなく、自分の中にある偽りない姿を写像・拡大して曝け出すことであり、このことを最も直接的に描いているのが競演のレヴューであった。加えて競演のレヴューだけでなく、他のレヴューシーンや、あるいはそれ以外のシーンでも「演じる」ことが示している内容は一貫している。

 劇場版の魅力の1つは、このように作中において示される価値観・美意識の一貫性にある、と筆者は考えている。


著者コメント(2023/7/1)

スタァライトに出会って色んなことがありました。
同じ作品を劇場で何十回と鑑劇したこと。
舞台観劇したこと。
観劇に遠征したこと。
応援上映に参加したこと。
そしてこの卒論合同に参加したこと。
これは本作の持つ熱量が僕を動かした結果に他なりません。
ちょうど、九九組のみんなをはじめとする舞台少女たち誰もがそのようにして舞台少女となったように。

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