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まわるステージと転がる車輪

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 『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』(以下、劇場版)は列車の映画である。作中の現実、非現実を問わず、さまざまな形で列車が登場する。

“列車は必ず次の駅へ――”

 繰り返されるこの台詞が示すように、画面の構成要素を超えて列車は作品の根幹に関わっている。

 本論文では劇場版という作品そのものが列車に喩えられることを示したい。それは、列車には車輪があり、回転することで前に進み、乗客をどこか違う場所へ運んでいくということである。

 TV アニメ『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』(以下、TVアニメ版)には劇場版の以前から回転のイメージが付きまとっていた。『劇場版再生産総集編「少女☆歌劇 レヴュースタァライトロンド・ロンド・ロンド」』というタイトル。『再生讃美曲』の

“少女よ、少女よ ロンドはいつしか終わる” 

スタァライト九九組『再生讃美曲』、2020、作詞:中村彼方

という歌詞。TVアニメ版の第1話で神楽ひかりが聖翔音楽学園に編入してきたシーンでは歯車が逆回転を始める演出が見られた。そして、同じ1年を数えきれないほどループしてきた大場ななの「再演」。

 劇場版のクライマックスであるレヴュー曲『スーパー スタァ スペクタクル』には次のような歌詞がある。

“高鳴る胸 何がある(導いて) そして星に手を伸ばす(何度でも)
まわるまわるステージで(諦めない) 私たちは強くなる(目覚めたの)” 

愛城華恋(CV:小山百代)、神楽ひかり(CV:三森すずこ)『スーパー スタァ スペクタクル』、2021、作詞:中村彼方

 まわるステージ。まわるという言葉は歯車と繰り返しを連想させる。

 「レヴュー」が描かれる時、舞台上の仕掛けが強調される。劇場版でもそれは顕著だ。「怨みのレヴュー」の花柳香子と西條クロディーヌが賭場で向かい合うシーンにおいて、2人を取り囲むのは顔の部分がくり抜かれた《博徒|ばくち》のハリボテである。「競演のレヴュー」では、オリンピック会場の客席を埋め尽くす観客(スズダルキャット)の裏側に貼り付けられたスピーカーをわざわざ映している。「魂のレヴュー」では舞台装置を動かす滑車のカットが挟まれる。「魂のレヴュー」に見られるように、舞台装置を動かしているのは滑車や歯車の回転である。TVアニメ版で愛城華恋がレヴュー衣装に変身する時、モーターの回転でワイヤーが巻き上げられ、ひとりでに動くミシンが衣装を縫いあげる。舞台は自動的に作動する機械であり、それは歯車や滑車といった回転する仕組みを有している。

 ここで再び列車の役割が思い出される。それは、人を乗せてどこかへ運んでいくことである。「オーディション」は「トップスタァ」になるという願いを叶える場であるが、一度踏み込んでしまえばもう自分の意思ではどうにもならないルールに弄ばれ、「キラめきを失う」リスクを背負わされ、時に望まぬ戦いや別離を強いられる。人間を翻弄し、何処か知れない場所へと運んでいく巨大な機構。「オーディション」とは、そして舞台とはそのようなものである。

 まわる、つまり繰り返すこと。大場ななの存在によって『レヴュースタァライト』という作品にループの要素が加わっている。だが、彼女の行う「再演」は、いわゆる“ループもの”とは異なっている。それらの作品におけるループがより良い選択肢を取るためのやり直しという性格を持つことに対し、大場ななは変化を拒み、同じ1年間をそっくり同じ形で再現しようとする。
 大場ななの「再演」とは異なる形でのループが作品内で提示されている。それは役者あるいは舞台の在り方そのものに関わっている。劇場版の天堂真矢は次のように述べる。

“十八番(おはこ) ですからね、あの劇団の。同じ演目でありながら、
上演されるたびに全く新しい舞台になる”

 舞台とは、そもそもが繰り返しを前提とするものである。それと同時に、常に新しく生まれるものでもある。愛城華恋たちの通う「聖翔音楽学園」では文化祭(聖翔祭)で3年間同じ演目を上演する決まりがある。その『戯曲 スタァライト』は、3年の間に配役も演出も、脚本そのものも変化していく。作品という入れ物の中に詰め込まれる人と時間と場所は常に異なるものだからだ。そういう意味で舞台は生き物である。その場にいる人間の身体によっていかようにも変化しうるし、変化せざるをえない。それゆえにTVアニメ版で大場ななの「再演」は破られ、第100回の聖翔祭は異なる配役と結末で上演されたのだ。

 寸分違わない繰り返しは不自然なだけでなく、本来不可能である。大場ななの「再演」は異様な影として表れ、『レヴュースタァライト』という作品のテーマである繰り返し、「再生産」を際立たせる。

“列車は必ず次の駅へ――”

 空転していた歯車は線路を走る列車の車輪に変わり、繰り返しには生まれ変わりという性質が加わった。

 劇場版では2種類の死が語られている。停滞としての死と、生まれ変わるための疑似的な死だ。

“私たち、もう死んでるよ”
“あの日、私は見たの。再演の果てに、私たちの死を”
“あんたとのレヴューに満足して、朽ちて、死んでいくところだった”

 「舞台少女の死」というフレーズ。そして終盤に起きる愛城華恋の死。停滞、挫折、目的の喪失。否定的な意味での死とは熱を失い動きを止めてしまうことだ。「オーディション」、そして第100回聖翔祭の後で熱を失いかけている99期生たち。それは、TVアニメ版が最終回を迎えて役割を失った登場人物でもある。新国立第一歌劇団の見学に向かう列車は、停滞した現状を表して、いつまで経っても次の駅に着かない。

 目的地を見失った人間は足を止め、動きを失った作品の登場人物はやがて忘れられる。だから歩き続けなければいけない。走り続けなければいけない。本当の死を回避するために疑似的な死を体験する。疑似的な死とは端的に言えば高いところから落ちることである。周知のことではあるが、『レヴュースタァライト』という作品には落下のモチーフが数多く見られる。TVアニメ版の第1話で愛城華恋がはじめて「オーディション」に参加する時、客席から飛び降りて舞台に落下していく間にレヴューの衣装への変身が描かれた。劇場版においても様々な場面で落下が繰り返されている。たとえば「怨みのレヴュー」における石動双葉と花柳香子であり、「競演のレヴュー」での神楽ひかりだ。

 そして『スーパー スタァ スペクタクル』で描かれる愛城華恋の死と再生である。舞台の上で観客の目に晒される立場をはじめて自覚した彼女は、その怖ろしさと自らを支えるものがないという不安から、ついに「死んで」しまう。神楽ひかりはそんな愛城華恋を生き返らせるために、彼女の亡骸を塔=東京タワーから地面に落とす。落ちていく彼女はアルファベットのT(「ポジション・ゼロ」)の形の棺桶に姿を変え、列車に乗って再び塔を目指し、舞台少女として再生する。落ちていく時間の中に生から死、死から生への転身が凝縮されている。

 疑似的に死んで生まれ変わるのは舞台と役者の在り方そのものである。そこには読むという行為が関わっている。演者も演出家も脚本家も、まずは元となる戯曲を読み、その上で各々の解釈を舞台で表現する。まずはじめに読解がある。重要なのは、読解によって元の作品を変化、変身させ得るということである。TVアニメ版の最終回において、愛城華恋は『戯曲 スタァライト』の結末を書き換えて神楽ひかりを救い出した。その時の彼女の台詞は以下の通りである。

“スタァライトは必ず別れる悲劇。でも、そうじゃなかった結末もあるはず”
“塔から落ちたけど、立ちあがったフローラもいたはず”

 ここで提示された物語の別の可能性、その解に辿り着くために愛城華恋が行ったのは『戯曲 スタァライト』の原書を自分の手で翻訳することだった。原書を読み、別の読み方を提示した。文学作品の翻訳が新訳によって更新されていくように、読み直すことで元の作品が息を吹き返す。塔から落とされる悲劇であった『戯曲 スタァライト』が塔から降りる前進の物語になる。そして劇場版はさらに先へ、『レヴュースタァライト』という作品そのものを読み直そうとする。

 たとえば映画の3分の1近くを占める愛城華恋の回想である。引っ込み思案な幼少期や周囲から一目置かれていた中学時代など、これまで詳しく語られることのなかった主人公の来歴と内面がここで明かされる。愛城華恋は神楽ひかりが王立演劇学院に入学したことを実は知っており、この回想によってTVアニメ版の第1話の意味合いが大きく変化する。

 そしてクライマックスの『スーパー スタァ スペクタクル』では二重の意味で読み直し/やり直しが行われている。TVアニメ版は愛城華恋の

“私にとって、舞台はひかりちゃん”

という台詞で大団円を迎えた。しかし劇場版においてこの台詞は舞台に立つ自覚の無さとして否定的に扱われ、愛城華恋が舞台少女として死んでしまう要因となっている。また、東京タワーの内部で神楽ひかりと向かい合う状況は冒頭の場面の反復である。だがこの2つの場面は、突然告げられた別れと自ら告げる決別で大きく異なっている。神楽ひかりが愛城華恋を生き返らせるために東京タワーから落とすのはTVアニメ版の冒頭において「オーディション」から遠ざけるために突き落としたことの変奏だ。

“貫いてみせなさいよ、あんたのキラめきで”

という神楽ひかりの台詞も冒頭の繰り返しである。

 東京タワーから落ちた愛城華恋は再び列車に乗る。自らの過去を燃やし、その炎で列車を加速させる。舞台装置は舞台少女の意思に応じて動くものでもあるからだ。舞台に立つ理由を自覚した舞台少女にとって、見られる恐怖は演じる糧へと意味を転じている。舞台に立つたびに繰り返される死と再生が、炎として、車輪の回転として表れる。火を噴きながら走り続ける列車は劇場版の物語を要約する。クライマックスで、愛城華恋は再び神楽ひかりの前に立ち、冒頭と同じ列車の音が反復される。

“私も、ひかりに負けたくない”

 はじめて発されたこの台詞が東京タワーを崩壊させ、『レヴュースタァライト』は次の駅に辿り着いた。

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