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可能性の収束/最後のセリフ読解

ハマーフリーク
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1.イントロダクション

 本稿では「愛城華恋のレヴュー武器“Possibility of Puberty”は何故折れたのか」について考察を述べていく。その全能性から制作陣をしてスパダリとまで言わしめた主人公・愛城華恋を支えたブロードソードが、どうしてあの瞬間に折れたのか、ということについて、筆者なりの持論を綴りたい。

 そこに至るにあたって、『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』(以下、劇場版)における最難関シーケンス(と筆者は思っている)「スーパー スタァ スペクタクル/最後のセリフ」の読解も必要だと考える。同時並行的に解釈を提示し、持論に対する根拠としたい。

 ここで、“スパダリ”という単語について、劇場版パンフレットでの脚本の樋口達人さんの発言を振り返ってみよう。

樋口 本読みのときに「華恋ってスパダリ(スーパーダーリン)だよね」と言っていたんですよ。誰にとっても完璧な彼氏という。そういうスタンスだったので、監督の言葉を借りると「愛城華恋を人間にする話」が劇場版だったんじゃないかなとも思います。

劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト パンフレット 鼎談インタビュー

 様々な捉え方が出来る単語だと思うが、本稿ではこの“スパダリ”という単語について「物語を推し進めるのに都合のよい無敵の主人公」という意味で用いていくこととする。

 筆者はTVアニメ版をリアルタイムで視聴したにもかかわらず、「ああ、とてもよいアニメを見たな」程度の読後感で終わってしまった超絶愚者である。再生産総集編の鑑賞でようやく脳天をカチ割られた新参者なので、浅学なのはご容赦頂きたい。また、学士論文もまともな完成物を上げられた記憶がないので、大変見苦しい文章になるかもしれないことを先に述べておく。「だ・である調」なものだから自信満々に見えるかもしれないが、全く一切断じてそのようなことはない。異論反論はTwitterまで。狭小な視野のかれひか考察をするくらいしか能がないのが筆者である。どうか許してほしい。お願いよ~、読者~。

2.場面読解

2.1.その前に:劇場版冒頭読解

 「最後のセリフ」読解を行う前に、劇場版冒頭についても触れておきたい。冒頭と最終盤が対比構造になっているように見えるからだ。

 まず冒頭は意味が分からない。初っ端なのに説明のない概念的な場面が徹底して続くからだ。最終盤もまた意味が分からない。やはり訳の分からん描写を、豪速球でこれでもかと投げつけてくる。訳は分からないのだが、表現の表層を拾い上げてみると対比構造の存在が見えてくる。その対比を整理することは「最後のセリフ」読解を深めるはずだ。

 まず、冒頭5分が何を表しているのかといえば、神楽ひかりの言葉を借りると「別れのための舞台」だ。トップスタァとなった華恋の無限のキラめきに耐えられなくなったひかりが、ロンドンへ逃げおおせるためのレヴューである。

 二人を繋いで結末の続きの起点となった約束タワーブリッジは溢れ出る無色のポジションゼロによって破壊し尽された。剥がされた華恋の上掛けが蛍光ピンクのポジションゼロに刺さっているので、このレヴューはひかりの勝利だ。

 また、この時の華恋は「ひかりと同じ舞台でスタァライトを演じる」以上の目標がない歪んだ舞台少女であった。ひかりが華恋のもとを去った途端、彼女の舞台少女の心臓たるトマトは弾けてしまう。

 ひかりがはっきりとしたことを告げずに居なくなったからか、表面上は聖翔で「生ける舞台少女」として日々を過ごしていたように見えるが、ひかりが居なくなったことで華恋の舞台少女としての立脚点は吹き飛んでしまっているわけだ。「表から見ると正常に動作しているように見えるが、本当のところはとっくに死んでしまっている」というのが劇場版における華恋である。

 比喩的にまとめると、神楽ひかりは愛城華恋の前から逃げ去り、逃げるために乗ったひかりの列車に華恋が轢殺されてしまうのが冒頭、ということになる。

2.2.スーパー スタァ スペクタクル/最後のセリフ読解

2.2.1.最後のセリフ読解Ⅰ/緞帳上げと死と落下

 さて、これに対応するのが最終盤、いわゆる「スーパー スタァスペクタクル/最後のセリフ」である。露崎まひるに叱咤され、キリンの遺したトマトを喰らってようやくワイルドスクリーンバロックの舞台に上がったひかり。華恋を避け続けてきた自分の弱さを認め、彼女と相対する覚悟を決めたひかりは第四の壁をも取り払い、華恋を同じ土俵へ引き上げようとする。

 一方、大場ななに列車に乗せられて役作りの旅へ送り出された華恋は、自分がここに至るまでの道のりを辿りなおし、そして「やっぱりわたしにとって、舞台はひかりちゃん」という不正解の結論へと達する。

 しかしひかりは「二人のスタァライト」から次の舞台へと既に視点を移しており、緞帳を上げて舞台が本来持つ熱量と恐怖を華恋に突き付ける。ここに至ってもまだスタァライトを演じきった先が見えていなかった華恋のトマトは、その熱量に耐えられずに弾け散り、愛城華恋は今度こそ舞台少女として死に絶える。

 舞台少女・愛城華恋の死をもって、彼女の中で自身の存在がどれだけ大きなウェイトを占めていたのかをようやく思い知り狼狽えるひかり。それでもすぐに持ち直し、舞台の幕を下ろすために懸命に演技を続ける。『レヴュースタァライト』を終わらせるのに必要なのは言わずもがな、舞台少女・愛城華恋の復活だ。

 「また、私からお手紙を送るね」というひかりの言葉の大元にあるのは華恋のあの文通ルールのことで、ひかりから華恋へ最後に送った手紙というのは、5歳でスタァライトを観に行った時のあの招待状である。

 そして13年ぶりにひかりが華恋へ送る手紙は、13年前に舞台少女として死にかけた自分を救い上げてくれたように、死した舞台少女・愛城華恋に還ってこいと叫ぶものだ。

 自身のルーツを思い返したひかりは、華恋の亡骸に手紙を乗せ、棺桶に収めて約束タワーから突き落とし、アンプ電飾ガン積み列車に括り付けて送り出す。

2.2.2.最後のセリフ読解Ⅱ/燃やせ燃やせ 燃やし尽くして

 大場ななが送り出した列車と同じ車体を魔改造した車輛に磔にして蹴っ飛ばすあたり、あのシーンは役作りの旅の再履修なのだ。早くに脱線して目的地へまったく辿り着かなかった列車が、過去を燃料に燃やしたロケットブースターで超巨大な砂嵐をも跳ね除けて、今度はきちんと約束タワーまで帰ってくる。

 ここで燃料になる過去というのは、すべてひかりとの運命の舞台に執着していた過去の華恋たちである。
「運命だから、見ないし聞かない」
「輝くスタァに、二人で」
「見ない、聞かない、調べない」

 それら全てを燃やし尽くし、舞台少女・愛城華恋の存在定義を練り直す。

 このシーン、絵面とは裏腹に、筆者は物語のレイヤーを神秘か
ら現実へと押し下げていく場面だと思っている。戯曲スタァライトは作者不詳。いつから存在して誰が作ったのか分からない戯曲の内容はある種の神話である。星摘みは夜の奇跡だが、ロケットに火を付けて宇宙へ飛び出せば、やがては星に手が届くのだ。そして愛城華恋は再生産される。全能の神のようなスーパーダーリンとしてではなく、人間として。

2.2.3.最後のセリフ読解Ⅲ/全能の神から人間へ

 スタァライトの舞台に二人で立つことに囚われ、それを求める過程で『レヴュースタァライト』の主人公としてスパダリで居続けなければならなかった華恋が、その役を捨てて次の舞台へ進むことは、神を人間に戻すことと同じである。『スーパー スタァスペクタクル』のオマージュ元が『ジーザス・クライスト=スーパースター』であることに照らせば「スーパースタァ」は華恋なのだ。

 そうして人間として復活を果たし、遅れに遅れてついにワイルドスクリーンバロックの舞台に立った華恋。ようやく同じ視座に立った幼馴染に、ひかりは正面から立ちはだかって加減なしのキラめきで圧倒しようとする。

 ひかりは華恋と正面から向かい合った。全身全霊をもって華恋を打ち負かそうと覚悟を決めたのだ。13年前、ひかりを舞台少女として救い上げてくれたのは華恋だった。華恋に憧れ、一度は怖くなり逃げ出したひかりが、今正面から彼女に向かい合っている。

 TV版にしろ劇場版にしろ、これまでひかりは華恋から逃げ続けていた。ネガティブな方向にしか向かっていなかった彼女がようやく前を向いたと思ったら、なんかもうバカみたいにキラめいてる、というのがひかりの口上シーンだ。「愛城華恋は 舞台に一人」の名乗り口上に「舞台の上に スタァは一人」と返すあたり、バチバチに張り合っていてまさにヤンキー漫画(*1)の趣で、「競演のレヴュー」前とはもはや別人だ。それだけ「舞台女優」のまひると観客たるキリンが彼女の骨格を造り替えたのだろう。

 13年越しにリミッターの外れたひかりの全力のキラめきを浴びた華恋は、彼女のキラめきにどうしようもなく惹きつけられる。あの宝石の欠片は、綺麗なのに怖く、羨ましくて、悔しくて目が離せない——ひかりのキラめきそのものだ。そうして華恋はようやく「二人のスタァライト」を演じきったあとに、自分がどうして舞台に立ち続けるのかを理解する。そしてそれを知覚した瞬間、華恋の剣が、唐突に折れる。


*1 Febri「劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト 監督・古川知宏インタビュー③」https://febri.jp/topics/starlight_director_interwiew_3/ (2022年4月閲覧)

3.思春期の可能性/可能性の収束

 ようやく本題である。なぜあの瞬間に華恋の剣は折れたのだろうか。舞台下から滅茶苦茶に恰好良く飛び出してきたのに、一度も切り結ばずに唐突に折れるのだから、何か意味があるはずだ。

 華恋のレヴュー武器には知る人ぞ知る“Possibility of Puberty”という名前(*2)が存在する。直訳すると「思春期の可能性」。九九組に限らず、人生で最も可能性が開けているといっても過言ではないのが高校時代である。望めば何者にでもなれる、そんな思春期の象徴が、華恋が持つあの剣なのだ。TV版のときはいかにも主人公らしい名前の武器だと思ったものだが、再生産総集編と劇場版を経たあとに、その名を冠した剣が折れることにどんな意味があるのか。

 ここでひとつ、人生というものについての《小咄|こばなし》を。人生とは結局のところ「その人に干渉する他人がどのような選択肢を選んだのか」と「その人自身が無限に存在する選択肢をどのように選んだのか」の連鎖で道筋が決まるものだと筆者は考える。

 だからこそ、あの時こうしていれば、ということもあれば、自分とは全く無関係なところで行く先が決まってしまうこともある。

 ここで華恋の17年間の人生に目を向けてみると、決定的な可能性の分岐が幾つも存在する。
「東京都港区の神楽家の近所に越してこなかったら」
「ひかりと仲良しになれなかったら」
「ひかりがあの時手紙を渡せていなかったら」
「劇団アネモネの主演で満足していたら」
「あの夜ひかりのことを調べなかったら」
「ひかりがロンドンのオーディションに参加しなかったら」
「ひかりがキラめきを失わず日本に戻らなかったら」

 これらのうちどれかひとつでも欠けていたら、華恋は一体どんな人間になっていたのだろうか。こうして並べてみると、華恋とひかりが聖翔音楽学園で再会したのは、そこに至る過程だけ切り取ってみても、運命のみが成し得る奇跡なのだとわかる。

 そのうえ大場ななの再演ループを抜け、運命の舞台を再生産し、ワイルドスクリーンバロックを経て最後のセリフにたどり着くのは、それこそ星の数ほど存在する可能性の分岐が収束した先のひとつでしかあり得ない。

 ひかりの超大なキラめきを浴びてあの瞬間華恋が理解したのは「どうして舞台に立っているのか」であり、それに対する答えは「私も、ひかりに負けたくない」という至極単純な、しかし華恋が今まで抱いたことのなかった想いである。

 裏を返せば、この瞬間に至るまで二人はライバルではなかった。ひかりは憧れの人の背中を追うのではなくむしろ逃げ続け、華恋は運命の舞台を追うばかりですぐ隣で輝くスタァに目を向けなかった。その二人の焦点が13年を経て「最後のセリフ」をもってようやく互いに結ばれたその瞬間に、ワイルドスクリーンバロックは終幕するのだ。

 そしてある意味スパダリの象徴のような名前のブロードソードは、その持ち主のスパダリ属性の喪失と、愛城華恋自身の可能性の収束によってへし折れるのである。

 TV版までの華恋は、九九組の他の8人の物語を動かすための舞台装置でもあったが故に、何にでもなれる反面、何にもなれないような器用貧乏さがあり、それは後ろ向きに言い換えれば「ネガティブな可能性」である。それを、自分は舞台で唯一無二の存在であると口上で高らかに叫び、さらに13年越しにすぐ隣で輝く星を見つけたことで、進むべき道もようやく定まった。つまりは、ひかりに負けたくないから自分も舞台でキラめき続けるという道へ。

 加えて、レヴュースタァライトという物語のエンジンとして、作劇側にとって都合のよい「無敵の主人公」であった華恋は、すでにスパダリではなく一人の人間として再生産された。
 可能性は閉じ、道がひとつと定まったのならば、そこにはもう「思春期の可能性」などという大仰な名前の剣は不要である。だからこそ、かの剣はあの瞬間に折れたのだ。


*2 劇場版再生産総集編 少女☆歌劇 レヴュースタァライト ロンド・ロンド・ロンド同梱設定資料集 武器デザイン 他

4.この物語の、『主演』は誰か。

4.1.最後のセリフ読解Ⅳ/ようこそ私 ポジションゼロへ

 さて、これで筆者が述べたかった本題は終わりだが、場面読解はまだ少しだけ残っている。折角なので終点まで走り切ろう。

 半ばから折れてしまった“Possibility of Puberty”を握りしめる華恋に対し、ひかりは溢れんばかりにキラめきながら「貫いてみせなさいよ。あんたのキラめきで」とその先のセリフを口にする。自身が言わねばならない「最後のセリフ」に思い至った華恋は、列車の迫る音の中、折れた剣を全力で振りかぶる。

 先に述べた冒頭と終盤の対比というのはまさにこのシーンのことで、冒頭が「神楽ひかりの逃げ際の列車に成すすべなく轢かれる愛城華恋」だったのに対し、終盤は「真正面からぶつかってくる神楽ひかりの列車を全力で迎え撃つ愛城華恋」に転じている。冒頭ではどこか後ろ向きな声で言い訳がましかったひかりが、終盤では自信に満ち満ちた声を発しているのが象徴的だ。

 そして華恋の「最後のセリフ」をもって、愛城華恋と神楽ひかりの関係はついに対称となる。

 舞台の上でいちばん最後に溢れんばかりのキラめきを放っていた役者が、共演者の口から最後のセリフを引っ張り出し、その短剣で華恋=ポジションゼロを刺す。「スタァのひかりのレヴュー」であるが故に「レヴュー・スタァ/ライト」なのではないか。

4.2.「貫いてみせなさいよ あんたのキラめきで」

 ところで、メインデッキ部分が肥大化してアリーナ構造内包型巨大ストラクチャーに変化した東京タワー、最後に華恋から溢れ出すポジションゼロでもって打ち上がるための舞台装置として変化したのだと思っているが、あの形になった東京タワーが最初に映るのは、キリンが燃え尽きたあとのヒキの絵なのだ。すでにこの時、舞台をあの結末に導くつもりだったのだとしたら、ひかりは諸々えげつない舞台少女である。

 そのうえスパダリ補正で必要以上に長かった剣を自らのキラめきでぶっへし折って、その切っ先の折れた小さな剣で貫いてみせなさいよ、とか言うあたりそりゃこわい。さすがはレヴュースタァライトを終幕させた人である。

5.おわりに

 これが筆者の「華恋の剣が何故折れたのか」という疑問に対する考察と、それに付帯した「最後のセリフ読解」である(論文の体を成していない気もするが)。

 卒業単位欲しさに論文モドキを執筆してみて改めて思い知ったのだが、レヴュースタァライトというのはやはり物凄いコンテンツなのである。中身はどうあれ筆不精の筆者にここまで書かせるのだから。また、こうして順序立てて文章を起こしてみて、ようやく気が付けたことも沢山あった。

 スタァライトに触れたことで、個人的に「演劇」というジャンルへの理解と興味を得られたことに本当に感謝している。今まさに小劇場観劇に嵌りそうなのだ。あの熱量は本当に独特だ。

 最後に、一生スタァライト留年の危機に陥っていた筆者に卒業の機会を与えていただいた、主催のさぼてんぐ氏、副主催のりーち氏へ最大限の感謝を述べたい。そしてガバガバ論文erの筆者を介護してくださったいのこり氏、ぽらる氏にも感謝を。大学からの友人K(香子推し)にも助力頂いた。4年前、彼と一緒に秋葉原ゲーマーズの壁面広告を見ていなければ、アニメも視聴しなかったかもしれない。改めてありがとう。

 なによりこの散逸な長文を最後まで読んでいただいた貴方へ、本当にありがとうございます。卒業要件満たしましたでしょうか?

 ではまた、次の駅でお会いしましょう。

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