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舞台少女らのレヴューにおける強さに関する考察。及び、世界が彼女たちの舞台である証明。

ぐしゃろごす。
tehihi@gmail.com
https://twitter.com/tehihi


0.それは舞台少女の織りなす、危険だからこそ美しい、魅惑の舞台。

 本稿は、舞台少女のレヴューにおける強弱が何に拠るかを考察し、詳らかにしていく。そのためにまず「レヴュー」とは何なのかを問い直したい。

 短絡に答えるならそれは決闘である。メタ的に解釈するなら、少女同士の主張のぶつかりあいを《剣戟|けんげき》に置き換えエンターテイメントとする表現手法であろう。

 TVアニメ『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』(以下、TV版)は9人の物語を12話という限られた話数で描く必要があった(*1)。主張とは個性であり、個性とはキャラクターである。その衝突と明白な決着という形でキャラクターとドラマとを同時に描けるレヴューという手法は、有り体に言えば効率が良い。これにより、TV版ではストーリーの進行及び焦点をレヴューの勝敗で語ることが叶い、舞台劇(及び俳優を志望する少女たちと、その学び舎)というテーマを取り扱ううえで避けがたい様々な要素を排除することなく、過分にはならぬよう周辺事情として存在させ、あくまでも物語の中核を「9人」から動かすことなく描くことができた。

 だが、そうして直接的には描かれなかったにもかかわらず、程度の差こそあれ全ての舞台少女に影を落とした要素が「競争原理」である。彼女たちはトップスタァの座を奪い合った。同期生が2人、学園を去った。神楽ひかりは敗退によりキラめきを奪われ、大場ななは皆が傷付くのを恐れ再演を繰り返した。しかし避けがたいものは避けがたい故にいずれ直面せねばならない。TV版の延長として描かれた『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』(以下、劇ス)は、これまで巧妙にマスキングしてきた競争原理を剥き出しにし、物語の中核に据え舞台少女らに(或いは我々観客に)突き付けた。

 劇スでのレヴューはTV版のものとは僅かに、しかし意味深く様相を変えた。舞台少女としての生死を問うものとなったのだ(*2)。


*1 古川監督自身が「9人のメインキャラクターを描ききるには1クールアニメではやはり足りない」「9人のキャラクターを最低限説明しつつ、一般の学校とは違う「舞台学校」としての特殊性も提示しなければならない。」等、様々なところで触れている。
Febri,https://febri.jp/topics/starlight_director_interview_1/,2022/06/25閲覧
アキバ総研 ,https://akiba-souken.com/article/37324/ ,2022/06/25 閲覧

*2 劇スでの全てのレヴューにはもれなく死を思わせる演出がある。列挙は控えるが、本稿にて示すとおり、TV版からのスケールアップを企図した結果のみではないと思われる。

1.あくまでも仮定。

 前章を踏まえ「舞台少女のレヴューにおける強さ」とは「舞台少女としての死に抗う力」と仮定する。ではその力量を左右し、レヴューの勝敗を分けるものは何なのか。それが情熱なら星見純那はなぜ連敗を喫したのか。演技力ならば、舞台経験の乏しい大場なながなぜああも強いのか。キリンは「キラめきにこの舞台は応じてくれる」と語ったが、神楽ひかりはそれの大半を失った状態で互角に戦っていた。一様には説明しがたい。

 順に考えるなら「舞台少女の死とは何か」に回答が必要であろう。劇スでは9人のそれぞれが死んだ(*3)。愛城華恋は、舞台に立つ覚悟がないことを自覚し、私には何もないと嘆き死んだ。7人は列車の上で己の死体と向き合い、そして舞台の上で生き続けるために甦るべくトマトへ齧り付いた。この二例から、舞台の上に立つ意欲の有無が舞台少女の生死に関わっているように察せられる。ではその意欲は何に向けられるか。それは「配役の獲得」であろう。舞台少女は配役を失うことで舞台に立つ資格を失い死ぬ。故に、舞台少女の覚悟とは新たな配役を得るべく意欲であり、その強さはその欲望の深さによるのではないか。思えばTV版にて彼女たちは「運命の舞台に立つためのオーディション」を戦った。本来オーディションとは配役を勝ち取るために参加するものである。

 推論としてはまとまったよう感じる。しかしまだ疑問は残る。「舞台少女の死とは配役を失うこと」ならば、大場ななに斬られた彼女らはどのような配役を失ったのか? 「皆殺しのレヴュー」はあたかも現実と地続きのように始まった。失う以前に、そもそも配役を得る機会などあったのか? そして「舞台」はいつ始まったのか?

 それらの回答は99期生卒業公演大決起集会に求められる。ここで流れている劇伴は『世界は私たちの…』と名付けられている。これは『舞台少女心得』のアレンジ版である。99期生の皆が、その道の険しさを自覚しながらも新たな舞台を望む。まさしく舞台少女としての心得をみせてくれるこのシーンにて、劇伴の題名として引用された歌詞は以下のものである。

 世界は私たちの大きな舞台だから

 世界(現実)そのものが舞台であり、そのように振る舞うことが舞台少女としての心得である。つまり舞台少女たちは、舞台少女である限り、世界を舞台として、常に演じ続けていなければならない。でなければ死ぬのである。これは過言ではない。大場ななは「降りても舞台だ」と歌いつつ皆を斬り殺した(*4)。そして天堂真矢は「私はもう舞台の上」と覚悟を示すことでその刃から免れた。現実から連続して始まったようにみえた皆殺しのレヴューは、事実として現実と地続きであったのだ。

 舞台少女は配役を失うことで死ぬ。舞台少女にとって世界そのものが舞台である。この二点の事実は、彼女たちの過酷な生き様を浮き彫りにする。配役とは「演劇が終わる度に必ず失われる」ものだからである。列車上にて7人が死んでいたのは次の舞台までの幕間(或いは途上)だからと解釈できる。甦らなければ朽ちて腐っていく。そして甦ってもまた死ぬ。故に次の舞台へ、次の舞台へ、次の舞台へ向かい続けなければならない。彼女たちがトマトを口にしながら宣言した「私たちはもう舞台の上」とは、その過酷さを受け入れ、いわば舞台の上以外では生きられない存在となることを、「舞台少女を演じ続ける」(*5)という覚悟を示す言葉なのではないか。

 いずれにせよ彼女たちは甦るための、卒業の先という新たな舞台に向けての配役を得なければならない。即ち劇スとは、舞台少女たちがそのための配役を見出すまでの物語と解釈できる。そしてそれは、生と死を問われる各々のレヴューによって見出される。

 これらを仮定としてまとめれば、「舞台少女の死に抗い、そしてレヴューの結果を別ける強さとは、自らに配役を任じ、それをどれだけ演じられているかである」となる。付け加えるなら「その配役を日頃から演じられているか(どれだけ世界を舞台としているか)」となるが、先述の通り劇スは配役を見出すための物語であるため、これはある程度TV版に限定したものとなるだろう。これら仮定を当てはめつつ9人の強さそれぞれを以下に考察していく。


*3 ひかりちゃんがやや微妙。まあ死ぬような思いはしたし(競演のレヴュー)……半身として描かれる華恋の死に直面したという解釈が妥当だろうか。

*4 正確にいえば斬り「殺した」わけではない。真矢が「舞台装置だ」と指摘したとおり芝居の上でのことである。ここで大場ななが皆を殺したわけではないという事実は大事な意味を持つ(後述)が、一方で、それが芝居であったとしても、圧倒的な力量差でもって皆に死を疑似体験させるのは大場ななにとって重要な演出であったと察せられる(あわせて後述)。競争原理の中にある彼女たちにとって、差をみせつけられるということはそれこそ殺されたも同然な心地だっただろう。皆殺しのレヴュー終了前後での、敗北した皆の生気の失せた棒立ちは改めてみるとなかなか怖い。

*5 『再生讃美曲』では「私たちは何者でもない 夜明け前のほんのひととき」と歌われる。配役を得ていない(何者でもない)、舞台が始まるまで(夜明け前)の一時とも読める。また、「aeiou」と歌われるコーラスは発声練習で用いられる発音であり、舞台が始まるまでの準備を思わせる。舞台と共に死に、また生まれ変わるという舞台少女の本質はここにも示唆され(讃美され)ているよう感じる。

2.大場ななは何を燃やして生まれ変わったか。

 舞台少女の強さを論じる本稿にあって、大場ななこそ最も論ずべき対象である。何度目だかわからない数の「再演」を守り続けた姿に、皆殺しのレヴューでの威容と、99期生最強の舞台少女であることは明白であるにもかかわらず、その強さの所以は不明瞭という矛盾があるからである。情熱・演技力・才能と強さに繋がりそうな要素諸々を並べても、他の8人に対しあれほどに圧倒的な差を生むほどかは疑問が生じる。これに対し、先に呈した仮定「自ら役を任じ」「日頃から演じているか」ならば矛盾のない説明が適う。ひとまずTV版に限定して話を進めるが、レヴューにおける敗北でその再演が途切れるまで、彼女ほど日頃から演じ続け、自らの役を担い続けた少女はいなかったのである。

 彼女は何をしたのか。世界を舞台にしたのである。キリンから運命の舞台を示され、第99回聖翔祭を、あの燃える宝石のような日々を「再演」できるという望みを得た瞬間に、聖翔音楽学園(以下聖翔学園)は彼女の「舞台」になった。天堂真矢という天性の舞台人でさえ本番(舞台)とレッスン(日常)とは別けて認識していただろう。世界そのものを舞台とし、日々を演じ続けた大場ななとの差は圧倒的なものとなった。だが、舞台は一人では成り立たないはずである。大場ななという「保護者」と共演していたのは誰か。それは「被保護者」という役割を押しつけられていた皆である。押しつけられていた、という表現では生易しいかもしれない。それは皆から未来を奪うという極めて独善的(エゴイスティック)な行為だった。「未来の演劇界を担うべく夢をみて」聖翔学園に入学した彼女らから未来を奪うという所業は、「彼女たち自らが選び取った舞台少女という配役」さえ剥奪するおぞましさも孕んでいる。大場ななはそのエゴを、皆を守るためだからと自己肯定し続けた(*6)。そして、それが愛しいはずの皆との差を生んだ。繰り返しの度に「みんなのバナナ」から「大場さん」にまで関係はリセットされる。楽しい日々の出来事は増え続けるが、その思い出は誰とも共有できない。愛着は一方的に募り、その乖離を甘受する度に「保護者」という配役は重くなり、より彼女は強くなった。

 その彼女がなぜ敗れたか。それは、神楽ひかりが二人であることを望み、愛城華恋が未来を望んだからではないか。どちらも彼女が目を背けたものである。大場ななが日々を舞台としても、共演者である皆が無自覚である限り結局は一人芝居であり続ける。大場ななは世界で一人だけ演技をしていた(*7)。TV版第9話にて、次の聖翔祭へ向けて華やぐ皆の輪に入れずにいたあの姿を想起してほしい。誰もが進歩と変容を望み、彼女の孤独は決定的なものとなった。星見純那に「再演」の事実を打ち明けたのも、自身の行為を誰かに肯定してほしいという甘えが、皆と演じたいという思いが漏れたからではないか。「孤独のレヴュー」と「絆のレヴュー」を通じ、私も皆と未来に行きたいと望んでしまった結果ではないか。

 そのほころびが演技(配役)のほころびとなりレヴューでの敗退に繋がった。

 以上を踏まえ、劇スでの大場ななに話を移す。上述時点で大場ななの強さには散々触れてきたが、皆殺しのレヴューにおいてはもはやそれどころではない。TV版にて見知っていたはずの我々をさえ圧倒した(*8)。舞台少女の強さが配役をどれ程強く自身に任じているかに依るならば、彼女をあれほどに強くしたものは何だったのか。それは先に述べた「皆と未来に行きたい」という願いだと推論する(*9)。

 舞台が終わる度に死に、新たな舞台へ向け甦らなければならないのが舞台少女であるとすでに述べた。大場ななはそれに気付いていたのだろう。「私はみたの。再演の果てに私たちの死を」と語った通りであるし、彼女自身が作中でも有数の運命の舞台への到達者である。それは彼女にとっての最高の舞台であるはずだった。皆と未来に向かうためにそこから降りたという経験が、彼女に舞台少女の生と死の意味を学ばせたのではないか。

 故に、皆殺しのレヴューは皆を殺すためでなく「私たち、もう死んでるよ」と気付かせるために行ったと捉えるべきであろう。舞台少女の死を、配役を失っている状態と換言すれば、大場ななが強いというよりも皆が弱かったとの解釈も適う。いずれにせよ彼女は苛烈だった。それほどまでに、皆を死に気付かせたかった。それほどまでに、皆に生き返ってほしいと願った。

 改めて、大場ななの本質は寂しがりやであるのかなと感じ入る次第であるが、しかし本稿は大場なな論ではない。主旨に立ち返り、大場ななは劇スにて何を演じ、その強さを発揮したかについて答えたい。それは「主催者」である。死に気付き甦ってほしいという祈り(*10)をもって皆を斬り伏せた(*11)。舞台少女の生死を問うレヴューはかくして開演した。いわばワイルドスクリーンバロックを先導する皆殺しの主催者である(*12)。かつて恐怖を除くために皆を守り続けた彼女は、恐怖でもって皆の背を押す役割を自ら担い演じた。いずれも、皆への深い愛着が動機としてある。やはりどこか保護者然としているようにみえる――というのは、本稿で語るには余る部分だが、付け加えておきたい。


*6 第99回聖翔祭から遠ざかることを恐れ、再演を繰り返す口実として皆を利用した部分さえあるだろう。どこまでが正当化で、どこまでが本心か、「眩しいもの」に目を焼かれていた彼女は、自身の心も見通せなくなっていたのではないか。

*7 TV版第9話、絆のレヴューでの『星々の絆』にて「私だけの舞台」と高らかに歌う。皆を守るため、と「皆」を強調することの多い彼女にあって、異質に響く印象的な歌詞だ。

*8 「こんななな、知らない……」と裏も取れている(とれてない。

*9 再生産総集編である「ロンド・ロンド・ロンド」ではTV版からいくつかの改変が施されているが、『星々の絆』の最後に「繋がった絆をいつまでも守る」と歌われるパートを、華恋でなく、ななが歌うという大きな改変が為されている。ここで守るとした決意が皆殺しのレヴューにまで繋がっているのではないか。

*10 もしくは腑抜けてる皆への憤怒など。無表情の殺陣とは裏腹に、一言では表しがたいほど色々煮詰まっていたのは無論だろう。そう解釈させる迫力が小泉萌香のあの歌唱にはある。

*11 天堂真矢は負けてない!

*12 主催者であると断定するには客観的事実が不足している。だが、ロンド・ロンド・ロンドにて、舞台少女の死を垣間見た大場ななは、その直後にそれまでの主催者であったキリンに「わかります か?」と問われ「わかります」と答えた。これは主催者という役目の継承を意味していたのではないか。同場面にてスカートから落とした多くのボタンは、ワイルドスクリーンバロック開催のために支払ったキラめきではないのか。華恋の「なぜ行ってしまうのだ」という台詞に「……友よ」と重ねたのは、「なぜ行かなければならないのか」を知り、それを友に告げる役目を自任していたからではないのか。劇場版序盤からしばらく、皆の輪から一歩退いた位置に立ちがちだったのはそうした立場の違いを示唆していたのではないか。どれも推測の域を出るものではないが、しかし彼女が主催者であると思わせる描写は数多い。

3.彼女が演じた舞台人、彼女が演じた悪魔、それぞれの正体。

 大場なな最強説に対して最も反論の余地を持つのが天堂真矢であろう。

 TV版でこそ首席たる存在感を放ちながらも大場ななに圧倒されたが、劇スでは皆殺しレヴューにて唯一肩掛けを落とされず対等に渡り合った。TV版から劇スまでの期間に縮まったこの差は相当に大きいはずであり、その所以を探る意義もまた大きいはずである。

 では、TV版にて天堂真矢は何を演じその強さを得ていたか。言わずもがなだろうが、「トップスタァ」を、である。サラブレッドたるを自認し、日々研鑽を積み、舞台の中心に立つのが当然であるよう振る舞う姿は本稿仮定である「自らに役を任じ、日頃からそれを演じられているか」に当てはまる。だが先述のとおり「再演」により世界そのものを舞台とし演じ続けるという半ば反則技にて強さを発揮していた大場ななには敵わなかった。それに従うなら、大場ななに《伍|ご》した劇スでの彼女は、皆殺しのレヴュー時点ですでに新たな配役を見出していたと察せられる――が、これに関しては後述する。

 天堂真矢が肩掛けを落とされなかった別の理由に言及したい。それは皆殺しのレヴューが、皆に死を気付かせるためを企図したものであり、真矢はそれをすでに知っていると大場ななが悟った故だと推論する。

 天堂真矢は舞台少女の生と死を知り、覚悟していた。根拠としては、大場ななの問いに「私はもう舞台の上」と答えてみせたこと。決起集会にて塔が灯った際に、未だ戸惑いの残る他の面々に比べ次の舞台に向けて皆と早速読み合わせを行っていたこと。それらにもかかわらず、各々の死体が並ぶシーンに天堂真矢のものもあったこと等が挙げられる。より直接的にはTV版第11話にて「傷付いても倒れても、舞台が私たちを甦らせる」と語っている。サラブレッドたる彼女は、生まれてまもない頃から最高の舞台を担うべく育ち、それを奪い合う競争のなかに生きてきた。トップスタァを目指す道程にて間接的に殺した舞台少女もいただろう。それ故に舞台少女の死と再生を《知悉|ちしつ》していた。故に、彼女は既に、新たな舞台へ向けての配役を見出していた。これが肩掛けを唯一落とされなかった所以である。では、その配役とは?

 改めて言及する前に、僅かに話を脱線させる。天堂真矢は、恐らく、みんなのことが好きなのだ。我々が思う以上に。

 彼女はきっと、何よりも舞台そのものを愛し、故に舞台を創りあげる人々を敬愛している(*13)。それはA組B組の区別無く積極的に交流している様子や、挑戦を尊ぶ姿勢から感じられる。TV版第7話にて「私は……大場なな、貴女を許さない」と告げた言葉は、トップとしての責務のみならず、舞台からいなくなってしまった者へ心を寄せてこその言葉ではなかったか。そして演劇関係者に囲まれて育った彼女であっても寮生活ともなれば話は別だったはずだ。競演者、脇役、裏方、配役さえ得られなかった者と深く知り合い、恐らくはそれにより、舞台少女として不可避の死を「舞台少女は何度でも生まれ変わることができる」と肯定的に解釈出来るようになったのではないか。どうあれ、舞台に生きるという志の尊さを、それを抱く同志の存在をより愛おしく感じるようになったのは想像に難くない。

 しかし舞台には常に競争がある。舞台少女は何度でも生まれ変われる。しかしそれには「舞台に向かい続ける限り」という条件が付く。まして競争は卒業の後にこそ苛烈さを増すのだ。愛おしいはずのその存在を自ら手に掛けねばならない機会が今後、幾度となく訪れる。彼女はトップスタァだ。トップスタァの責務とは最高の舞台を完成させることに他ならない。競争原理とは最高を目指すために生じる摩擦であり、それを否定することなどできない。舞台人として生きるならば、弱者の犠牲を当然のこととし、その肉を喰らわねばならない。

 その葛藤の果てに見出した「配役」が「神の器」なのではないか。自我を捨て、完全な舞台の実現のみに奉仕する「空っぽの器」である。

 西條クロディーヌはそれに打ち勝たねばならなかった。

 TV版にてクロディーヌが自認し、勝ち得た配役は「天堂真矢の好敵手」である。天堂真矢と書いて「高潔高邁な、理想の舞台少女」と読む(*14)。それに相対する者。それは十二分に高い志であったろうが、同時に危うさも孕んでいた。天堂真矢がライバルを必要としなくなったらどうなるのか。繰り返し述べているように、配役を失うということは舞台少女にとって死を意味する。ライバルは無論、競演者がいなければ成り立たない。天堂真矢を振り向かせなければ、西條クロディーヌは配役を失った挙げ句に何者にもなれず腐り行くままだった。だが、落伍者の存在に不感症になると決めた相手をどうすれば振り向かせられる? そうした意味で、クロディーヌは誰よりも追い詰められた状態にあったと解釈できる。故に、彼女には「ライバル」以外にも自らの配役を選ぶ余地があったはずだ。思い出は思い出として、フランスへの凱旋と共に花開き、その舞台で新たな生き様、生き甲斐、配役を見出せばいい。

 無論、西條クロディーヌはそんな道など選ばない。その先には天堂真矢(という理想)がいないからだ。理想とは一度失えば取り戻せぬからこそ理想なのだ。故に彼女は魂を賭けてレヴューに臨んだ。不敵な笑みとともに「その魂を寄越せ!」と挑みかかるあの姿は演技である一方で、今ここで「最高のキラめき」をみせて真矢を振り向かせなければ舞台少女として二度と甦ることができないという、真に魂を賭した姿だった。いわば真矢の捨てようとしたものを懸命に求めたのがあの悪魔としての姿である(*15)。真矢の捨てようとしたものとは、これまで述べた通り「舞台にまつわる人々への愛」だ。それこそがお前の魂だとクロディーヌは叫んだ。もしくはもっと独善的な叫びだとも解釈できるだろうか。アンタが不要だと断じても、私だけはそこに必要であり続けると(*16)。

 捨てると決めた者と、それは必要であると訴えた者。結果として「魂のレヴュー」は演劇論のような様相を呈した。真矢が目指したのは舞台の完成のために演者が奉仕する調和した演劇であり、クロディーヌが主張したのは競演者が存在を主張しあうためにこそ舞台が存在するという即興劇めいた演劇だった。クロディーヌは悪魔らしく狡猾に、真矢の怒りを誘うあらゆることを舞台に仕立ててみせた。This isを中断させ、ルールを破り、高所を奪い、口上を剽窃し、愛しい鳥を叩き斬って落とした。そりゃ怒る。そりゃあ怒る。そうして激情を掻きたて即興劇に巻きこんだ。その末に天堂真矢は西條クロディーヌの姿を、ライバルとの競演を心から楽しむ姿を美しいと感じた。魂のレヴューはクロディーヌの演劇論を真矢が認めたという形で決着を迎えたのである。

 しかしそれが演劇論であるならば、当人の語ったとおり一度では決着は付くまい。改めて劇スにて両者の見出した配役を指摘すれば「理想の舞台人」と「もう一人の理想の舞台人」となる。故に二人は、明日も明後日も、互いの理想を舞台で体現しあう。将来その舞台をみた観客たちが「真矢様こそ至高」「クロちゃんこそ最高」と舞台論を交わすかも知れない。その舞台に胸を刺す衝撃を受けた別の舞台少女が各々に演劇論を継承し、そこで新たな論争を生むかも知れない。そうしてきっと、ライバルのレヴューは永遠に終わらないのだろう。


*13 番外編作品から例をとるのも恐縮だが『よんこま すたぁらいと』では、チケットをご用意されず、精気のない顔で共用ソファにだらしなく寝そべるという希有な姿を目撃できる。本編で指摘するなら新国立に関し得々と語るシーンだろうか。/巻々廻『よんこま すたぁらいと①』株式会社ブシロードメディア,2019

*14 まあ少なくともクロちゃんにとっては。いや我々にとってもそうである。

*15 もっとも、真矢が自我を捨ててまで舞台に奉仕する覚悟を固めていたことをクロが事前に知っていたかどうかは断定しづらい。気付いていたならば「あんた、本当に弱いわね」という楽屋での言葉に奥行きが生じるものの……察してはいたが、レヴューの最中に思っていた以上のものだと気付いたのが正味なところだろうか。

*16 この告白(告白と言いたい)は二度目に近い。TV版用に既存曲からアレンジされた『Star Divine』には彼女専用に書き下ろされた歌詞がある。そこで真矢に向けて「舞台の中心は一人しか立てない。でも孤独にはさせない(意訳)」と歌っているのである。一度言ってわかんねえなら何度でも言ってやるという気概を感じるし、自分だけは切り捨てられずについていくという宣言は「あんたに辛い思いはさせない」ということでもあり、やっぱプロポーズじゃん?
リスアニ! WEB ,https://www.lisani.jp/0000114924/,2022/07/16閲覧

4.籠の中の鳥はどちらだったのか?

 花柳香子・石動双葉のご両人だが、少なくとも(将来的にはともかく)最強とは言い難い。「怨みのレヴュー」は互いに覚悟を固めきれぬまま煮え切らない態度で、新たな配役を見出しながらもそれを担うべく決意に至れぬまま演じあったと察せられるからである。情念渦巻く愛憎劇は「ドロドロ」と表現されがちであるし、割り切れぬ関係である二人が演じ合うには相応しい舞台であったろう。何にせよ両者のレヴューは妖しく艶やかに花々しい。

 先ず香子の強さに言及する。彼女はTV版においてものの見事に連敗を喫している。その所以は、仮定に則るなら「すでに約束された将来があるから」となる。いずれ日舞家元を襲名する生まれ故に演劇を習うのは知見を広めるため。聖翔学園への入学願書(*17)では「私が通えば貴学園にも新たな箔がつく(意訳)」と、将来のための踏み台であると公言している。彼女にとって日舞の価値は大変なもので(*18)、そこでの頂点はすでに約束されている。その自負に足るだけの修練は日々こなしていただろうが、彼女の描く理想、演じ担うべく配役は未来にあった。今をまさに演じる理由は彼女にはなく、故に他の面々から一歩遅れていた。その姿勢は双葉にも悪影響を及ぼす。双葉が舞台に臨む理由は「一番近くでお前と一緒にキラめきがみたいんだ!」であるため、香子が歩みを止めてしまえば双葉も先に進めなくなってしまうのだ。その言葉を受けて香子は

「追ってくる者のため、(中略)最高の自分で居続けんとあかんのやね」
「二人で世界一にならんとな!」

と決意を新たにする。ここまでがTV版のあらましである。

 そしてその決意に至らせた言葉を「大ー嘘吐きィ!!」と詰るのが劇スである。双葉の言葉は嘘だったろうか? まあ割と嘘である。嘘になってしまったというのが正しいように思う。双葉が日本舞踊ではなく、新国立第一歌劇団(以下新国立)という舞台演劇の道を志望することは香子と道を別つ選択となるからである。家元の継承者である香子は同じ道を決して選べない。他の8人は、道を違えても、舞台俳優としていつか舞台で再会することもあるだろう。しかし香子だけはそれが望みがたい(*19)。それを思うと、皆が新国立の見学に浮き足立っている様子を「しょうもな」と吐き捨てた姿や、オーディションの再開を待ち望んでいた姿にも奥行きが生じるよう感じる。孤独と、それを孤独と感じてしまう自身への苛立ち。或いは皆との別れが決定してしまう「卒業」から眼を逸らしモラトリアムの延長を願うような態度だったろうか。加えていうなら、仮に双葉が同じ道を選んだとしても家元(No.1)と名取(No.2以下)という立場は動かしがたい。故に「お前と並んで、後ろから見つめてるだけじゃダメなんだよ!」「立ちたいんだ、てっぺんの舞台に!」という望みを得た双葉は、日舞の外へ出て行かざるを得なかった。それが解らぬ香子でもなかっただろう。故に、かつては注意を引くために打ったいつもの芝居を裏返し、縁切りを迫った。嘘をつくな、本音を晒せと理解を示さず詰り続けて遂には双葉を「なんでわかってくれないんだよ!」と泣かせ、「もう、一緒にはいけない!」と宣言させた。これにて縁切りである。

 違うのだ。わかっていたからこそ、香子は双葉を手放そうとしたのである。しかしその姿には少々疑問が残る。なぜ縁切りまでする必要があったのか。換言するなら、レヴューに臨む前に、香子が己の死体と向き合いながら固めた決意とはなんだったのか。憶測を承知で述べるなら、それは「舞台少女として甦ることなく死ぬ覚悟」だったのではないか。

 「追ってくる者のため」「二人で世界一に」が香子の舞台に立つ理由だと先に書いた。いわば香子にとって、双葉こそが運命の舞台なのである。理想を失うことは舞台少女にとって死と等しいと既に述べた。双葉と縁を切る覚悟とは、それを永遠に失う覚悟である。無論、香子は愛しい人が去ったとて本家日舞を疎かにするような人物ではあるまい。だが一方で、彼女が描いた本当の理想の舞台は果たされぬことになる。列車上にて舞台少女の生と死に向き合った香子は、双葉を見送る行為が自身の死を意味するのだと悟った。しかし決起集会を経て新たな舞台へ進む意思は「きれい」(*20)なのだと知ってしまった。だから双葉に「お前のためにというのならここに居てくれ」とは言えなかった。その果てに、半死半生の姿で生きていくことを覚悟し、それが双葉の重荷とならぬよう(或いはそんな姿を愛しい人にみられぬよう)、互いの中から存在を抹消しようとしたが故の縁切りだったのではないか。

 互いに寸前までは本気での縁切りのつもりだったはずである。かつて香子は、双葉を振り向かせるために自らの星に刃をあてた。それの裏返しを演じた末に、今度は本当に《自刃|じじん》するつもりだったのではないか。チキンレースのようにみえるデコトラの真っ向勝負だが、舞台を突き抜け落下したのは花柳丸の方だ。香子はそもそもブレーキを踏むつもりもなく最初から飛び降りるつもりだったのではなかろうか。しかし寸前の寸前で、双葉はこれがいつもの香子のワガママだと気付く。子供のころからずっと続くやりとりを通じ、変えようのない本心が互いの心のなかにあるのを見た。仮に香子が身投げをするつもりだったとの推論が正しいなら、双葉はすんでのところでそれを助け止めたこととなる。本心であろうとなかろうと、いつものやりとりはいつもの結果を迎えた。二人の交わした「ほんと、しょうもないな」の言葉の通り、割り切れぬ関係故に、切っても切れぬのだと確かめ合ったご両人は「愛しいひとを待たせる者」と「愛しい者を待つひと」という配役を分かち合う。

 見様によっては、香子が選んだのは最も酷な配役である。皆が理想に向かい進むなかで唯一人、その理想がいずれ帰ってくるまで待ち続けると決めたのだ。彼女はその配役を自らに任じきれただろうか。皆が肩掛けを空へと放るシーンにて、彼女の姿が真っ先に映っていたことにその答えを感じたい。


*17 「少女☆歌劇 レヴュースタァライト ロンド・ロンド・ロンド」パンフレット,株式会社ブシロード,2020

*18 「双葉はんの面倒をみてるのはうちどす」(第12話)など、あくまで自身が世話を焼く立場だと疑ってない姿が折にふれみられる。我々からすると(どの口が?)といったところだが、双葉に日舞を手取り足取り教える立場という自負がそう主張させているのではないか。そのくらいに彼女にとって日舞の価値は大きいのだと察せられる。

*19 一方で、全くの門外漢で恐縮だが新作として区別はされるものの西洋戯曲の日本舞踊化などの試みもあるようだ。
日本舞踊協会,https://nihonbuyou.or.jp/activities/new-work,2022/06/25閲覧

*20 決起集会にて、皆が意気を揚げているなかで香子はそれに一度背を向けて去ろうとしている。同じ道を選べぬと知っていた彼女は、あのシーンでもなお孤独だったのかも知れない。しかし(新たな舞台へと進む意思を象徴するかのように)灯った明かりをみて「きれい」だと感じた。ならば、それが別れを意味したとしても否定などできるはずがないじゃないか。

5.星見純那よ、お前は何者だ。

 問題の星見純那である。全員と比較した上での実際の強弱は不詳とするにせよ、朝も自分で起きられない頃の華恋に連敗している。日頃からのぐるぐるしてる(*21)姿も仇となり強さの点で低くみられがちなのは否めまい。何よりも、あれほど皆が舞台少女として甦るのを望んだ大場ななに「生き恥を晒すくらいなら今死ね(意訳)」と自死を迫られるのである。「私も皆と未来に行きたい」からこそ主催者として振る舞ったのに「でもお前は無理だからここで死ね(意訳)」である。

 そこまでか? そこまで星見純那は舞台少女として弱いのか?

 この疑問への回答は少々難しい。非才と片付けるには、高倍率たる聖翔学園の入学とそのなかでのキャスト獲得という事実が重い。経験の浅さを自覚している分だけ情熱も人一倍である。本稿仮定である「自らの配役を見出せているか」を当てはめるなら、星見純那は己の役を掴み切れてないということになる。それは何故なのか。演技とは「他者になる」ということでもあるが、その点で純那は自分星という言葉等から察せられるように、自分自身に拘りが強く、自我が強すぎるため「別の誰かになるという行為」が不得手なのではないか(*22)。もしくは彼女自身が無自覚に選び背負った配役が「見果てぬ夢に努力を続ける少女」であり自縄自縛を生んでいるのではないか。星を見続けるから星見純那であり、星を掴んだら星見純那ではない。のかもしれない。一言で言えば不器用。いずれにせよレヴューとは当人同士の問題である。故にこの「純那ちゃん要領悪すぎ」問題は大場ななにも課題であり、むしろ皆に舞台少女であり続けて欲しいと願った大場ななこそ直面せねばならない難題だったのではないか。現に純那当人は、レヴューの寸前でさえ「ケリをつけるって、何を……?」と戸惑い自らの問題点に気付いていない。

 大場ななにとってはその不器用さが愛おしかった。要領も諦めも悪く、星に手を伸ばし続ける姿が美しくみえた(*23)。或いは大場ななは、星見純那のそうした部分を自分と重ねてみていたのかもしれない。なな自身がどれだけの「再演」を経ようとも絶対に届かないあの聖翔祭を追い求めていたからである。その辛さと空虚さを知ったが故に、諦めてほしくないと伝えられなかった。だから愛おしくとも捨てねばならなかった。「再演」によって皆を閉じ込めていたあの行為は独善であり、救いきれぬものを救おうとする行為はエゴでしかないのだと断じ、星見純那を救わぬことで、諦めるという行為を受け入れようとした。純那を斬りつけながら叫んだ「届かない星の眩しさで、もう何もみえないくせに!」という言葉は、もはや純那か、「届かなくて、眩しい」と呟き続けていた過去の彼女自身に向けているのか我々には判別しがたい。

 こう書くと、純那はななの通過儀礼に一方的に付き合わされただけのようにも思える。客観的にはそれも事実である。救うことを諦めるならば、妥協にみえる道だろうとも、そっか、がんばってね等適当な言葉で見送ればいい。そうできないほどの愛着があったのも恐らくは事実だ。かつて大場ななは「再演」というエゴにより皆から孤立していた。純那はその行いを「ずっと私たちのこと、見ててくれてたのね」とやわらかく肯定した上で「舞台少女なら、大丈夫」と、同志として受け入れた。皆との差に苛まれていた彼女にとって、それがどれほどの救いとなっただろうか。そして「貴女が大切にしてきた時間、守ろうとしたもの、全部持っていってあげて。次の舞台に」と諭したのも純那だった。ななにとって純那とは、美しい思い出そのものであり、未来を示した灯火だった。その灯火が妥協を選び何処とも知れぬ場所でふらふらと瞬かれては道を見失ってしまう。等々挙げていけば、大場ななが星見純那を許せなかった理由は十分にあるよう思えてくる。だが、ただ、その上で、自ら手を下さず自死を迫るというのは……こう、強烈である。エゴを断つために結局エゴを剥き出しにしてるというか……(*24)。故に、星見純那が舞台に立ち続けるため行うべき回答は明白だった。

「殺してみせろよ大場なな!!」とブチギレることである。

「貴女に与えられた役なんか要らない!」
「貴女の用意した舞台なんて、全部、全部斬り捨てる!」

とエゴをぶつけ返すことである。己の言葉という自我で足掻き、潔い自死など拒絶し舞台にしがみつき、自分が選ぶ道は間違ってなんかないと叫び、私はこのままでいいのだと高らかに宣言し、思い知らせることである。かくして星見純那は、狩りのレヴューを通じ「星見純那」という配役を得る。守り通したというべきだろうか。

 屑星だとさえ断じたその星の眩さに気付かされたことは、ななにとっても救いとなったはずである。狩りのレヴューは一際複雑な構造をしていると感じられる。初めての本音の大喧嘩、過保護な親を突っぱねる子、進路相談、舞台監督の指示を自らの俳優論で撥ね付ける役者等様々な関係にみえる。どうあれ、ななにも未練との決別が訪れる。「でもいつか……いつかまた、新しい舞台で。一緒に」という言葉で、眩しいものは未来にもあると示されることで。捨てるべきだと思い込んでいた眩しさを、それを守り抜いた星見純那を通じ報いられる形で。大場ななは皆の保護者やキリンとさえ肩を並べる裏方(*25)という役から解放される。


*21 大場なな曰く。

*22 劇場版序盤の、稽古のシーンでの「行かなければならないんだ! あの大海原へ!」という笑顔に(私の演技、どう!?)的なドヤ感があるようみえたのは筆者だけだろうか。自我が出るせいで演じきれない、という実例として引けるように思うが、いずれにせよ、次の華恋の演技に少々気圧されているようにみえるのが悲しい。

*23 挑戦と、それの敗北による痛みはまさしく大場ななが「再演」により取り除きたかったものであろう。いわばななにとって純那は人一倍手の掛かる、守ってやらなければならない対象だったのではないか。つまり「再演」を正当化する理由の権化でもあった。

*24 そもそも大学進学ってほんとにそこまで妥協だと詰られるような選択なんですかね……純那ちゃん、ななさんに進路の相談したことあるんだろうか…… 「私には無理」と判断した進路を「どっちにいったらいいか迷ってるから」とかいう理由でしれっと第一にも第二にも書くような天才に相談とかできるはずなくない? て気もします。その態度が「後ろ暗いことがあるから相談できなかった」と怒りを誘ったんじゃないのかな……そうしてみると、狩りのレヴューは「なんで相談もせず勝手に決めちゃったのよのレヴュー」にも見えてきますが論文というか二次創作っぽくなってきた。

*25 「再演」という舞台装置を担い、再生産総集編ではメタな進行役を担当し、劇スでは主催者となり「分かります か?」と歌った。一人の登場人物に納まったことそのものが奇跡的であるほどに多くを彼女は担っていた。

6.本物の舞台女優、露崎まひる。

 劇スでのレヴューが、レヴューを通じ「新たな舞台に立つための配役」を各々が見出す構造を持つように解釈できるのはこれまでみてきた通りである。その点において露崎まひるは特殊といえる。「競演のレヴュー」にて神楽ひかりの前に立った時点ですでに配役を見出し、さらには役作りを完了しているからである。本稿仮定によるならば彼女は相当に強い。現にその(文字通りに)恐るべき強さは我々の観たとおりである。彼女はTV版にて得たものをそのまま担っている。「大切な人たちを笑顔にできるような温かいスタァ」を、である。その配役でもって神楽ひかりを散々びびらせ追い回し笑顔どころかという目に遭わせたのはともかくとして、それらは実際には、愛城華恋から逃げ出したのだと自覚させ、まだ言えてない言葉があることを思い起こさせるための演技であった。そうして背を押された(*26)からこそ、神楽ひかりは決意を持って華恋の前に立つことが叶い、そして愛城華恋は再生産を果たす。大切な人たちを笑顔にするという自らの配役を遂げた露崎まひるは、まさしくこの物語そのものに大きく貢献した。思えば「まひるちゃんの温かい歌が好き、おひさまみたいなダンスも好き」と評し、まひるにその配役を与えた(気付かせた)のは愛城華恋である。物語上の役割として、ひかりの背を押し、華恋の元へ送り届けるのにこれ以上の適任はいなかっただろう。

 華恋とひかりはスタァライトの中核にいる二人である。その二人を支えるエピソードだけに競演のレヴューでは核心に触れる台詞がちりばめられている。とりわけ重要に思えるのは以下の対話である。「演じてた? ……ずっと?」「うん。ずっと」「怖かったの? まひるも」「今もまだ怖いよ」「まひるは、どうして舞台に立てたの?」

 この問いに、まひるは答える。

「決めたから。舞台で生きていくって」

 ぶっちゃけこの一言があるなら本稿全て蛇足となるほどの台詞である。舞台で生きていくためには演じ続けなければならない。それがどれほど怖くとも。だからこそ自ら舞台に立つ意思を固めた少女は強い。舞台の怖さとそこで求められる覚悟は、およそ間違いなく本作のテーマに含まれている。その解釈に従うなら、神楽ひかりの贈った「まひる、すごく怖かった! 本物の舞台女優だった!」という賛辞が意味深く感じられる。また、本稿仮定を補うものともなるだろう。まひるの演技に言及を続ければ、この後の「まだまだへたくそだけど。歌も演技も」という呟きも趣深い。競演のレヴューでの演技に下手な箇所があったということは、演じきれていない、本音が漏れていた部分もあったということではないか。思えば、ひかりが皆の前から姿を消すのは二度目である。そのときのTV版での華恋の姿と、劇スでの華恋の姿とに思うところもあったろう(しかもひかり当人は、そのどちらも知らないのだ)その歯がゆさ、自分を競演者としてみてくれない苛立ち、運命の相手は自分ではないという嫉妬、「そんなんじゃ任せられないなあ」という歌詞。それらを演技で覆い「でも、行かなきゃ」とひかりの背中を押して競演の相手を見送る。そこには三人でルームメイトとして過ごした日々への惜別の想いもあっただろうか。だが、それこそが「キラめく自分を目指して真っ直ぐ」、自ら任じた配役へと近付くために必要な決意だったのだろう。


*26 押したっていうか、突き落としたっていうか……ただ、スタァライトにおいて落下は大事なメタファーである(本稿参照)。ちなみに古川監督は「パース変動のない上下の動きがアニメの作画上難しいものではないことから取り入れたのが始まりでした」と言及している。
MOVIE WALKER PRESS ,https://moviewalker.jp/news/article/1064939/ ,2022/06/26閲覧

7.自分ルールだから、ごめんじゃないのかもしれないけど

 舞台少女は日常的に演じている方が強い。もしくは舞台少女は常に演じ続けなければならない。この本稿仮定は劇スにて直接的にも示されている。愛城華恋は愛城華恋を演じていたという事実がそれである。この事実が本稿の要諦であり、劇スという物語の、或いはレヴュースタァライトという演目の立脚点と察せるものでありいわばポジションゼロである。

 TV版にて愛城華恋は、キラめく舞台に飛び込み、溢れるキラめきを皆と分かち合うようにしながら遂には運命の舞台へと辿り着いた。それを達成させたのは何だったのか。

 舞台への愛が彼女に無尽蔵のキラめきを与えたからだろうか。運命の舞台という夢に向かう純真さが故だろうか。どちらも否である。改めて想起すべきは、運命という言葉には否定的なニュアンスも含まれるという点である。一本のレールのように、他に選択肢がないという意味で用いられる場合もある。同様に、演技という言葉にも、虚偽や粉飾といった意味合いがある。愛城華恋は「運命を信じる少女を演じていた」。これを上述の語義に置換するなら、愛城華恋は「他に道はないと自らを騙していた」となる。

 これは少々過言である。しかし事実として、彼女は嘘をついていたことが劇スで明示される。神楽ひかりが王立演劇学院へ進学していたことを知らない振りをしたあのシーンである。嘘と呼ぶにも演技と呼ぶにも些細な行為だっただろう。しかし我々の見知った愛城華恋という存在が根底から揺らぐシーンでもあった。この場面以前にもいくつかのシーンで、愛城華恋は愛城華恋を演じていたことが示されている。例えば「ノンノンだよ!」と、TV版で印象的なあの芝居染みた台詞は現に芝居からの引用だった(*27)し、「約束の舞台、目指していますか」という質問に取り消し線を引いたし、見ないで聞かないで調べないでいた。彼女は運命の実在を疑わないある種の才能めいた純真さを持つ少女ではなく、約束が履行されているかを不安に感じ、引き返せぬ選択を前に躊躇し、運命ではなく約束であり、その場所が自然に導かれる場所などではなく自己決定的な選択と努力によって辿り着く場所だと知っていた。普通の少女だったのだ。自覚の有無には諸説あるだろう。しかしどうあれ聖翔学園にて神楽ひかりと再会し、約束の再確認と「嘘」により「愛城華恋」という役は補われ、そして運命の舞台に到達した。


*27 「ついに主演女優かあ」というマキさんの言葉から察するに初主演作であり、華恋にとって重要な作品なのは間違いあるまい。勇気あるヒロイックな役柄らしいのも、「ノンノンだよ!」という言葉で皆を導いた姿と重なり、華恋自身の人物造型に大きな影響を与えたよう察せられる。

8.私がいる、ここが舞台だ!

 神楽ひかりという人物を評するなら「愛城華恋と運命を交換した相手」である。運命とは予め定められた唯一の道である。それを交換するとなると話はややこしい。

 華恋にとっての運命の始まりは、あの日あの舞台をみせてくれたひかりである。

 ひかりにとっての運命の始まりは、あの日あの舞台に立とうと言ってくれた華恋である。

 いわばスタート地点からして混同が起こっており、比翼連理の如く二人の根は絡まり合っている。TV版から通じ、時折みられる互いの立ち位置が入れ替わる演出(*28)はそうした示唆だと思われるが、何にせよ、ひかりは一人で立つと決めた運命の舞台に華恋を招き入れた。互いを出発点とし、そして目標地点としても見做し合った末に二人はポジションゼロにて一つの運命となった。美しい成就である。

 しかしそれらを踏まえることで「華恋のファンになってしまうのが怖かった」という、ひかりが逃げ出した理由のその怖さを理解できるように思う。愛城華恋がそうであったように、ひかりもまた「私にとって舞台は華恋」だったはずである。だが「自分の理想が舞台の上に立っているのならば、自分が舞台を目指す理由などない」のではないか。理由の喪失は舞台少女としての死であると繰り返し述べてきた。しかしここではそれ以上の意味に思える。自分の理想像が舞台に立っている。ならば、自分が舞台に立つにはどうすればいい? 配役とは奪い合うものだ。ならば、舞台に立ちたければ、舞台に立つ自分の理想像を殺さねばならないのではないか――? そしてひかりは、いわば理想から目を背けて華恋から逃げ出した。その逃避が華恋の理想も奪うことになると思い至らぬままに。しかし、それでも、まひるとの「競演」のレヴューにより諭され、怖くとも演じ続け、舞台に生きるために、かつて交換し合った運命に決着を付けるために、運命の舞台と決別し再び一人と一人になるべく「愛城華恋が目指す光」として舞台に立った。


*28 例えば、TV版第1話と第4話冒頭での観客席でのシーン、TV版第4話と第8話では時系列こそ違うが滑り台に引っ張り上げる立ち位置が入れ替わっている。劇スではピエタのように互いを抱きかかえるシーン、及びそれを観客席から見つめるシーンなどが該当するだろう。

9.眩しいからきっと。

 本作では落下というモチーフが頻用される。これは舞台少女という生き様の過酷さにも繋がった演出である。舞台は必ず終わり、そこから降りなければならない。それが最高の舞台だったとしても。そしてまた次の最高の舞台へゼロ地点から這い上がらなければならない。或いはそのゼロ地点さえも苦難と共に向かうべき場所である。オーディションにて彼女たちはポジションゼロへの到達を奪い合うからだ。そしてオーディションにて勝ち得るのは一般には配役である。故に、ポジションゼロは配役の暗喩と解釈できる。

 空っぽを自覚した華恋は、死に、落下し、ポジションゼロに変わり、レールをひた走り神楽ひかりの立つ舞台へ飛び込み、そして愛城華恋として再び生きるために産まれる。これまでスタァライトが示した暗喩の全てをおさらいするような怒濤の展開の後に迎える「最後のセリフ」は、あたかも劇ス冒頭で行われた「別れのための舞台」の再演と思える。そこで愛城華恋は、可視化され凝縮を経て結晶へ至るほどに《眩|まばゆ》いキラめきを放つ神楽ひかりと対峙する。それは比喩でなく舞台少女にとって致死量のキラめきである。眩すぎるキラめきは人にただ見惚れることを強いる。そこを目指す意思を不遜だと信じ込ませる。遠くて届かないのだと思い込ませる。華恋はそのキラめきに胸を貫かれ、可能性と呼ばれた剣(*29)が折れてもなお、それに抗いそれを告げるためにこそ再生産したそのセリフをいう。運命を交換しあったもう一人の自分と決別し、新たに向かい合うための、レヴュースタァライトという演目のなかでの「最後のセリフ」である。敢えて引用はすまい。

 その瞬間におびただしく噴出したポジションゼロは何だったのか。
 愛城華恋が選び得た、「舞台少女愛城華恋」として以外の、ありとあらゆる配役である。愛城華恋が普通の少女として持ち得ていた可能性と未来の全てである。最後のセリフは彼女が舞台に立ち、立ち続けるための理由であった。それは、愛城華恋が舞台少女として生きる以外の可能性全てを捨て、舞台にのみ生きること唯一つを決意する台詞である。それを運命とするための台詞なのである。

 愛城華恋は、これまでの過去も、これからの可能性全てをも燃やし尽くし、あの砂漠のポジションゼロへと辿り着いた。砂漠に至り、砂漠から始め、そしてまた必ず砂漠に辿り着くことを宿命とする旅路。物語を締めくくるにしても鮮烈な選択であるが、それはこれまで見てきた劇スでのレヴュー全てで行われた決断ともいえる。最高へ至るまで積み上げ、それを全て燃やし、また積み上げ直す。それはあらゆる舞台で行われていることなのかもしれず、そして舞台に生きるという決意はその繰り返しを受け入れるということなのかもしれない。

 舞台少女は、舞台少女として生き演じ続ける。スクリーン越しに彼女たちのキラめきに照らされるばかりの我々には、それは過酷なものに映る。しかし彼女たちのあの晴れやかさの前には何も言えなくなる。遠ざかる列車の音を聞きながら、その旅路の先の眩しさにただ目が眩むばかりである。

 本作が示した運命とは、普通の少女の選択であり、自ら決断したものであった。夢や理想というものを、自己演出的ではあれ、ただ一つと定めたものであった。であればこそ、自ら役を任じる舞台少女は強い。故に、世界は彼女たちの大きな舞台であり続ける。これをもって本稿の結びとしたい。


*29 Possibility of Puberty。再生産総集編「少女☆歌劇 レヴュースタァライト ロンド・ロンド・ロンド」Bluray特典設定資料集 , ブシロード ,2021

著者コメント(2022/10/10)

 なきながらかきました。なのでテンションがアレで論文という体裁を保てているのか、またなんか結局作中に起きたことを並べただけのいわゆる「この研究の新規性はどこなのかね?」的な文章になってしまったよう危惧もしております。
 ......ななさんは次の舞台のための配役を見出せたのかなあというのが観る度に感想の変わる部分です。場合によっては、俳優志望を降りるつもりだったんじゃないのかなとか。今現在は、純那ちゃんの不器用さを認めたからこそ、悩むことを肯定し、そのどちらも選びうる王立へと進学したのかなあとか考えてます。

著者コメント(2023/9/30)


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