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「怖い」映画 ~『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』私的感想文~


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Notice ・本稿は2022年10月に発行した劇場版スタァライトの考察・感想合同誌『舞台創造科3年B組 卒業論文集』に掲載したものをそのまま転載しています。 ※寄稿者の希望で修正を加えている記事もございます ・本稿は2022年4月に受け取った初稿を、以降数ヶ月掛けて寄稿者と主催チームとの間でブラッシュアップして作成しました。 ・考察に正解はなく、どの考察も一個人の解釈であることをご理解ください。 ・「九九組」「アニメ版」など、人によって意味合いや解釈が異なる単語については、寄稿者の使い方を尊重しています。 ・本稿は『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』の二次創作作品であり、公式とは一切関係ございません。

「怖い」

 それがこの作品を初めて鑑賞した時の、私の第一印象だった。もちろん、他にも思うことはあった。しかし、怖くて、もっと言うならばよく分からないけどなんかすごいものを観た、というのが先ずもっての感想だったことに他ならない。

 私が、『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』という作品に出会ったのは確か2019年の10月上旬のことだったかと思う。私事にはなるが、やっと新生活にも慣れてきた頃合いだった。以前より「面白いから観ろ」と友人に勧められていたこの作品を、いよいよと思ってストリーミングサービスで鑑賞した。3日間程掛けて全て観終える頃には、もうこの作品の虜になっていたことは、こうして限界感想文じみたものを書いている時点で言うまでもないだろう。読めない展開に感情が乗ったレヴュー曲、そして何よりも顔のいい女と女が戦うというのが堪らなく私の心に突き刺さった。

 さて、時は過ぎて2020年の8月、この作品の総集編が上映された。“再生産”総集編と銘打たれたあまりにも怪しいそれを、当時の社会情勢に依る諸事情から、残念ながら私は劇場で観ることが叶わなかった。歌って、踊って、そして奪い合う舞台少女たちの可憐な勇姿を、スクリーンの大画面とサラウンドの音響で楽しむという贅沢。正直、当時ちょっと病むぐらいには悔しかった。

 そんな私に再び好機が訪れたのは、昨年――2021年のことだった。新作劇場版の上映が行ける範囲内の映画館で決まり、前年に比べて諸事情に係る制限も緩和されていた。迷いなどなかった。逸る心を抑えつつ、上映初日のレイトショーを予約した時のことはまるで昨日のことのように思い出せる。それだけ当時の私は、劇場でこの作品を観るという体験に飢えていた。

 鑑賞した日のことは朧気にしか覚えていない。恐らく脳内麻薬か何かの類が過剰に分泌されていたためであろう。はっきりと記憶にあるのは上映後、席を立って何とか駐車場に辿り着いてからしばらく車内で動くことができなかったことと、帰宅の途に就くための尻叩きとしてTwitterのフォロワーに通話を頼んだことぐらいだろうか。通話に付き合わされたフォロワー曰く、どうやらこの時の私はまともに呂律が回っていなかったらしい。

 ここで、冒頭の感想に戻る。何が「怖い」と感じたのか。もちろん、全体を通してそう思う部分も少なからずあった。しかし、局所的に怖いと感じたポイントが幾つかあった、という方が感覚としては近いといえる。以下に、2点の対照的な恐怖を感じた箇所について書いていこうと思う。

 まずは、「直接的な恐怖」を感じたシーンについて。これはすなわち直感に訴えるもの、といってもいい。事象そのものが恐怖の素になっている場面だ。

 さて、それはやはり冒頭のシーンであろう。静寂を切り裂いて勢いよく潰れるトマト。このシーンは静から動への急激な移行を伴っており、更に開幕早々この展開にぶち当たったことが私を含む観客の度肝を抜いたのではないかと思う。

 しかしながら、この場面について、「びっくりした」というよりも「怖い」というファーストインプレッションを得た要因はまた別のところにあるのではないかと思う。

 例えば、飛び散る果肉の赤色。それは、どうにも別の赤いどろりとした液体――つまるところ人間の血液を想起させる。同時に思い出すのは、再生産総集編のラストにあった、あの衝撃的なシーンだろう。記憶の中から引き摺り出されたそれが、きっと私を含む多くの観客の鳥肌を立たせたに違いない。

 次に「間接的な恐怖」を感じたシーンについて。これは事象そのものよりも、周囲の背景等を含めた総合的な怖さの演出とでも言うべきものだ。

 こちらは、電車での移動中のシーンだ。新国立第一歌劇団へと向かって走る車内、九九組の会話の最中に鳴り響く車内アナウンスのチャイム。アレンジが掛かっているものの、それは聞き紛うことないオーディション開始を告げるあの音だった。スマートフォンに表示が出るとともに床を転がってくるのは円にキリンの描かれた、これまた見覚えがありすぎるマーク。途絶えたままの会話、書き換わった液晶掲示板、鳴り続けるチャイム、手摺りに吊られた無数のレヴュー服の上掛け……。

 白状すると、この作品において個人的に一番恐怖を感じたのがこのシーンだったりする。

 既にお気づきの方も多いとは思うのだが、実はこの一連のシーンの前から、車両の接続部より覗く隣の車両には誰一人として乗っていない。都心を走る電車、しかも真っ昼間だ。これはありえない。正直、この時点でもう大分怖かった。

 では、何故このシーンに特段の恐怖を覚えたのか。答えとしては、混乱が極まった状況を脳が理解できていない、というものになる。意味の分からない気持ち悪さ、とでも表現するべきか。前述した異常な状況が、電車内という日常の光景に平然と紛れ込んでいる。そして、あまつさえその日常を侵食し、異常、もとい非日常へと変質させていく。このことがどうにも気持ち悪かった。TVアニメ版の唐突にオーディションが始まる時の緊張を、一層際立たせて異様さをプラス、そして大掛かりにした。もうこれは一種のシュール系ホラーと言っても過言ではないと考える。

 怖くて、意味が理解できなくて、気持ち悪くて――でもそれが私には堪らなく最高だった。

 もちろん、前述の場面の他にも、唐突に始まる最終章「wi(l)d-screen baroque」の開幕戦とも言うべき「皆殺しのレヴュー」の冷酷無比な大場なな、アルチンボルドの絵画様の野菜キリン、「競演のレヴュー」など、怖いと感じる部分は作品全体を見渡しても多々あった。

 それら全ての要素が複雑に絡み合って、この作品を鑑賞した際の「怖い」という感想につながったのだと考察する。

 最後に、私にこの作品と再び向き合う機会をくださった主催様に今一度の感謝を。

 ありがとうございました。


著者コメント(2022/10/10)

改めて「劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト」に向き合うことが出来ました。貴重な機会を下さり、ありがとうございました!

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