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ワイルド スクリブル トマティーナ ──神楽ひかりの代弁者としてwi(l)d-screen baroque“初演”の真実を探る──

石田初羽
https://twitter.com/acrylyric
https://acrylyric.booth.pm/

Notice ・本稿は2022年10月に発行した劇場版スタァライトの考察・感想合同誌『舞台創造科3年B組 卒業論文集』に掲載したものをそのまま転載しています。 ※寄稿者の希望で修正を加えている記事もございます ・本稿は2022年4月に受け取った初稿を、以降数ヶ月掛けて寄稿者と主催チームとの間でブラッシュアップして作成しました。 ・考察に正解はなく、どの考察も一個人の解釈であることをご理解ください。 ・「九九組」「アニメ版」など、人によって意味合いや解釈が異なる単語については、寄稿者の使い方を尊重しています。 ・本稿は『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』の二次創作作品であり、公式とは一切関係ございません。
イラスト:りーち(https://twitter.com/komatsuriichi

映画が本来、反政治的な形式でありながら、同時にきわめて革命的であることは、ジャズが「綱領なき革命」であるのに似ている。それは、作り手と受けとり手とのあいだのたった一枚のスクリーンを国境として、幻想が密入国しながら変容してゆくことに始まる内的な歴史である。

『映写技師を射て : 寺山修司映画論集』寺山修司
(新書館 1973 年)

他人の言葉じゃ、ダメ!!

 星見純那が言ったように、稚拙でも自分の言葉で語ろうと思う。本題に入る前に少しお気持ちを述べさせていただく。

 レヴュースタァライトは観る度に発見がある作品。これはTVシリーズの時から変わらない。それでも劇場版は……考察どうのの前に9人の物語が完結してしまったショックで、しばらくの間立ち直れなかった。ブシロードが提供してるコンテンツなんだから劇場版の後もまだまだ続いていくでしょ……劇場公開が終わる頃にはTVシリーズ2期の制作が発表されたりして? ……しかしそんな甘い期待は打ち砕かれ、強烈に現実へと引き戻された。自分も前に進まなければと本気で思えたからこそ転職に踏み切れた(※効果には個人差があります)。

 私は常々、素晴らしい作品に出会って自分がどれほど心動かされたかについて語る時、そこで取り上げるべきは「何度観たのか」でも「どれだけグッズを買い集めたのか」でもなく、己の人生がどれだけ影響を受けたか。これについて話すべきであると思っていた。実践なき信仰に価値はない……そう感じながらも口をつぐんで他人の作り物を消費する日々。だがそんな鬱屈した気分に別れを告げる時が遂に来た。『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』に出会えたことで。

 だから私は、この卒論で本当に卒業しようと思う。

 これから先も私はレヴュースタァライトを観続けるだろう。これはやめるべきではない。それでも語るのは今回が最後だ。ここに全てを置いていく。企画してくださったさぼてんぐさん、卒業のチャンスをありがとう。

さらば、全てのレヴュースタァライト

 まるで光学プリズムのように、観る人それぞれの視点と感性によって異なる輝きを放つレヴュースタァライト。魅力を語れば尽きないが、私が特に惹かれたのはダイナミックに変化するキャラ同士の関係性と、シリアスな感情がぶつかり合い美しく昇華されていく過程だった。だが注意深く見ていくとそれらもまた物語そのものが持つ力強い構造の上に成り立っていると気づいた。

 ジョーゼフ・キャンベルの著作『神話の力』『千の顔を持つ英雄』に出会って以来、私は映像作品に向かい合う時、神話学的な視点で読み解くということをしてきた(*1)。

 神話学の中でも特に比較神話学と呼ばれる分野は、ある地域の神話を別の地域に伝わる神話と比べて共通点・相違点を発見することを主題としている(*2)。私はこれを自分なりに解釈して、映画やアニメを観る際に応用している。つまり一方に映像作品を、もう一方に神話を置いて考察を試みる。神話は既に多くの学者によって研究がなされ、その心理学的意味やメッセージについて定説が存在するので、映像作品の中に編み込まれた神話構造を見つけ出すことが作品の理解にも繋がるのだ。ハリウッドでは『STAR WARS』以来神話を下敷きにすることは基本のテクニックとして使われ続けているし、それは日本のアニメでも同様である。作品づくりにおいて最大の課題は常に、使い古されたありきたりな(ほこりはかぶっていてもしかし決して朽ちることのない) 神話に、いかにして時代性を反映させ、発展させ生まれ変わらせるか。結局のところこれに尽きる。

 そういう視点でレヴュースタァライトを観た時、TVシリーズにおいて最も近似した神話は「テセウスのミノタウロス退治」であろう。本論考はあくまで劇場版に捧げるものなので詳しい説明は控えるが、気になる方はミノタウロス退治のあらすじを読んだ上でテセウス=愛城華恋、アリアドネ=神楽ひかり、ミノス王=キリン、ミノタウロス=大場なな、迷宮=再演のループとして、それぞれ置き換えてみていただきたい。第8話において「キラめきの再生産」が起きた際、神楽の短剣が、長さが元に戻るのでなく、ワイヤー=糸を活用できるようになったことに関して特別な意味が生じることだろう(*3)。


*1 神話学については、創作に役立ちそうな情報を漁っているうちに辿り着いただけであって、大学で講義を受けるなど正規の教育を受けた訳ではないことを申し上げておく。筆者の最終学歴は職業訓練系の短大卒である。

*2 著者のジョーゼフ自身は神話学について「宗教から最も遠い学問」と述べている。宗教は、それが語る神話を地上において唯一と信じるところから始まる。それを比較検討するのだから出発点からして間違っている。そもそも宗教や神話は学問するものではないのだ、とも。

*3 神楽の短剣には第1話の時点で既にワイヤーが確認できるが、ワイヤーアクションを行うようになるのは第8話以降。
 因みにミノタウロス退治の構造は他の作品でも発見できる。私の知る範囲では『ワンダーエッグ・プライオリティ』『「鬼滅の刃」竈門炭治郎 立志編』第1話~第4話がこれに当たる。いずれも罰する父の不在によって野放しになった怪物が悲劇をもたらす点で大きく共通している。また興味深いことに『鬼滅の刃』では強力な鬼を倒す決め手が見えた時「隙の糸」が現れる。ここでもやはり、鬼が作り出した“迷宮”から脱け出す手がかりは糸なのである。

再生産総集編発 各駅停車 劇場版行き

 ここまでお読みいただければ、私がどのような視点から作品のメッセージを読み取ろうとしているのか、ご理解いただけると思う。いよいよここから本題に入る。

 『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』(以下“劇場版”)において最も論ずるべきは『劇場版再生産総集編「少女☆歌劇 レヴュースタァライト ロンド・ロンド・ロンド」』(以下“総集編”)との繋がりの不自然さである。これについては上映直後から様々な考察が飛び交っていたように思う。

 曰く、大場なながまた再演をしたのではないか……と。

 99期生が舞台少女としての死を迎える未来を予見した大場は、望まぬ結末を阻止すべく再び再演を始めた。劇場版はその再演での出来事である……というのが要旨だったか。

 この説をTwitterで見た時、私は「それはないだろう」と思った。論理的に、というよりは直感的に。もしそれが正しいとしたらTVシリーズで描かれた大場の成長が彼女自身によって否定されてしまう。それは嫌だった……だとしたら真実は?

 全員の死を予期した大場が神楽を呼んだ総集編。

 幸福な結末を冒頭で突き崩した(物理) 劇場版。

 両作品の間には停車駅があったはずで、見逃した舞台がそこにはある……。

 そんな予感を、私はある人に投げかけた。

 以下は2021/10/09のイオンシネマ海老名にて、総集編・劇場版の連続上映を観劇した三兎群青さんに宛てたツイート(*4)。

これに対し三兎さんが提唱したのが「神楽ひかり再演説」だった(*5)。

 三兎さんも本合同誌に寄稿されているので、その後の発展も含めて是非ご本人の論考を参照いただきたい(第14章)。

 再演したのは大場でなく神楽だった。TVシリーズ第12話の結末を書き換えたのが劇場版の冒頭シーンである。大胆ながら非常に説得力のある本説を一度は私も支持したのだが……。


*4 石田初羽 @acrylyric 2021/10/09/18:12
『前からお尋ねしたかったんですけど、ロロロの最後、劇場に立つ大場の所にコツ、コツ、コツ、と神楽がやって来て「私たちの舞台は、まだ終わってない( キリッ)」と言いますよね。そこから劇スがうまく自分の中で繋げられなくて。』
『多分劇スはロロロの直後の話ではないんだろうなあと考えてます。大場と神楽の間で何らかのやり取りがあって、神楽は愛城から離れる決断に至った……と思うんですけどその辺りどう思われますか。』

*5 三兎群青 @azurite_mito 2021/10/11/16:05
『わかった……。ロロロと劇スの繋がり。ロロロから劇スに行く前にもう一度再演してるんだ。しかも大場ななではなく、神楽ひかりの手によって。ロロロの最後でなながひかりに「舞台少女の死」と「再演」について語り、ひかりは再演を始める。一周目の記憶があるから、』
『今度は星摘みの塔に幽閉されることなく、もう一度星のティアラを戴く、そして望んだ「運命の舞台」が『劇場版 少女歌劇レヴュースタァライト』でありwi(l)d-screen baroqueなんだ。劇ス冒頭のひかりの口上「生まれ変わった~」がwi(l)d-screen baroqueを匂わせてるのはそういうことだ』

場に伏せられたワイルドカード

 三兎さんが提唱した「劇場版=TVシリーズで描かれた1年間を神楽が再演した世界線」説を念頭に置いて改めて本編を見返すと、今まで見落としていたあることに気づいた。

 ここでひとつ思い出していただきたい。TVシリーズにおいて、オーディションの開演を告げるメールは黒地に白抜き文字の文面だった。しかし第7話で、大場に届いた最初のオーディションのメールは白地に黒い文字だったことが判明する。TVシリーズではキリンから初めて届いたメールと再演ループに入る2回目以降のメールで白黒が反転していた。

 翻って、劇場版においてメールが登場するシーンは2回。即ち、

【本編映像23分47秒】(皆殺しのレヴュー直前)
新国立第一劇場行きの列車で愛城宛に届いたメール
【本編映像36分53秒】(野菜キリン直前)
99期生決起集会にて西條クロディーヌが眺めるメール

 そして愛城に届いたメールは黒地に白抜き文字、西條に届いたのは白地に黒文字だった。これは明らかに愛城にとってのwi(l)d-screen baroqueが2回目であったことを意味する。

 ……そう、キリンは間に合っていなかった。見逃してしまったことに気づくことすらできなかった。劇場版で描かれたwi(l)d-screen baroqueは、もう既に再演だったのだ。

列車の切り離しを行います。足下にご注意下さい……

 キリンが見逃した舞台、観客不在の初演こそが総集編と劇場版の間に置かれた「停車駅」であると仮定する。ではそこで一体何が起きたのか。その一部始終を考えてみよう。ここから先は完全に私の想像になることを予めことわっておく。尚、本稿では「中心となって物事を催す」意味の“主催”と「一段高い位置から支配し取り仕切る」意味の“主宰”を意図して使い分けていくこととする。

 まずは総集編。神楽は愛城との運命を完結させたかに見えた。が、大場によって再び地下劇場に呼び戻される。そこで知らされたのは、舞台少女9人に死が迫っていること、回避するには舞台少女自身の主催でwi(l)d-screen baroqueを開演するしかないことの2点。ここまでは一部三兎さんの考察に沿っているが、本説ではこの後の神楽の行動が大きく異なる。

 確かに三兎さんが指摘したとおり、神楽が第100回聖翔祭までの1年間を再演したのではないかと考えることもできそうだ。しかし私は1度運命の舞台を演じきった時点で神楽はその権利を使い果たしてしまったと考えている。愛城の飛び入りを端緒として、そこから「誰にも予測できない運命の舞台」を創り上げることに成功した時点で観客(キリン=舞台の主宰者) は満足している訳で、所詮は演者の1人に過ぎない神楽が要求したところで自己都合のリテイクなど認められるはずがない。それは大場も同じこと。彼女らに何かができるとしたら、それは新たに舞台を創り出すことだけだったはずだ。

 大場が後に劇場版でwi(l)d-screen baroqueを開演するのと同様、神楽もまた主宰者の手を離れて独り歩きを始めていた……。彼女らが自らプロデュースする新しい舞台が、最早オーディションと呼ぶべきでないことは勿論である。

 私は、最初のwi(l)d-screen baroqueは神楽と愛城の2人だけで行われたと見ている。根拠は劇場版で登場したメールの文面が愛城と西條で白黒が反転していること。つまり愛城にとっては2回目で、愛城と神楽以外の7人にとっては初めての出来事だったのではないかと推測する(*6)。

 大場から「舞台少女の死」について聞かされた時、神楽は愛城と運命の舞台を完成させたことが、結果として愛城を死に至らしめることになったと後悔した。飢えと渇きが満たされることは、演者にとって死を意味する。愛城が飲まず食わずで砂漠を歩き続けることができたのは、彼女自身が満たされ潤っていたから。辿り着いた結末をなかったことにはできない以上、前に進むためには「既に果たされた約束」への執着を断ち切るしかない。

 wi(l)d-screen baroqueの開演によって再び塔に登った神楽は、愛城を強く拒絶する。次の舞台へ進むためにTVシリーズ及び総集編での結末を否定し、もはや目指すべき星はここにはないのだと理解させるため爆破までして。背中を押したつもりだった、過去を清算したつもりだった──神楽にとっては。だが失敗した(*7)。

 ここまでお読みいただいた時点で反論もあろうと思う。このやり方では成功したとしても愛城1人しか救えないのではないか、と。全くその通り。それもそのはず、神楽は愛城を救うことしか最初から頭にない。他の6人は大場に任せていた。それが大場によるwi(l)d-screen baroqueの再演、或いは第二幕・皆殺しのレヴュー。だが役割分担をしていたとは言え、大場が救おうとしていたのは全員だ。その中には当然神楽も含まれている。愛城のためとうそぶいて恐怖心から舞台を降りる、そんな神楽を大場は許さない。だからこそ、約束も運命も失った空っぽの愛城を利用することで神楽を舞台へ呼び戻した。彼女の危機を知れば助けに来ると知っていたから……?

 劇場版のwi(l)d-screen baroqueが大場による再演だったとするならば、そんなふうに捉えることすら可能になる。しかし果たして、誰がこれを単なるこじつけと呼べるだろうか。大場ななの脚本家としての技量を勘案したとして?


*6 wi(l)d-screen baroque 初演は大場も不参加だったと思う。ならば初演の開催を大場は知らなかったのか、と問われるとそうとも言えない。総集編の最後、神楽と話していた時点で大場は唯一結末を知る脚本家であり、その結末を書き換えるべく行動を起こし、舞台袖で(愛城と神楽による初演も含めて) 成り行きの全てを見守っていた……。そう考えると劇場版スタッフロールで大場が呟く「ちゃんとみんなに逢えたんだ」が全てを知る大場と神楽による「術後の経過観察」のようにも感じ取れて面白い。……というようなことを考えていると大場の本差(長い方の刀)は脚本力を象徴してるような気がしてきた。脇差が演技力。そう考えれば「狩りのレヴュー」で脇差を手にした星見がニューヨークへ演技を学びに留学するのも意味が通る。スタッフロールの大場は演技してる感じしないし……。マジかよ大場、あんな短い刀=才能であの強さ。

*7 ここで言う「失敗」とは単に愛城が死を回避できなかったことのみを意味するのではない。一度は舞台の上に立ちながらも降りてしまった、前へ進むのをやめてしまった点で神楽も自身の回生に失敗している。
 また、wi(l)d-screen baroque初演において神楽の目論見が失敗したことについては、この時点の神楽がまだトマトを食べていなかったから、とも解釈できる。トマトを食べることが舞台に生きる覚悟を決めることを意味するのは勿論だが、ここでも敢えて神話学的な解釈を試みることにしよう。
 人類が創り出した基本的な神話パターンのひとつに、大地を象徴する神/精霊を殺して、その亡骸から穀物の種を得る、というものがある。多くは民族の主食の起源について説明しており、これをハイヌウェレ型神話と言う。因みに野菜キリンには野菜だけでなく首の辺りにトウモロコシも用いられている。
 炉を外から眺める立場だったはずのキリンはいつの間にか舞台の上に立たされ、最後には焼かれて舞台を駆動させる燃料をもたらした。このことからキリンは舞台少女に生きる糧をもたらす神であると言える。キリンの肉体から転がり出たトマトは神からの賜り物。口にすることで、死に瀕していた身体に活力が与えられる(なぜトマトが採用されたのかについては、吸血鬼というヒトならざるモノが生き永らえるために飲む「血の代用物」と言う連想があるように思う)。
 神の身体を食すことが祝福を授かることを意味する一方で、別世界の食物を口にするとその世界の住人になってしまう、という不気味なルールが神話にはある。これを「黄泉竈食よもつへぐい」という。日本神話において国土を産んだイザナミノミコトは、火の神を産んだことで死んでしまう。彼女を救うため黄泉へ向かったイザナギノミコトに対してイザナミは「自分は既に黄泉の食物を口にしてしまったので元の世界に帰ることはできない」と告げる(因みに「黄泉の食物」について古事記には「黄泉の国の穢れた火で炊いたもの」とのみ説明されている)。
 黄泉竈食神話はギリシャにもある。こちらの場合冥界へ行くのはペルセポネ。やはり大地/農耕の女神である。ハデスに見初められ冥界へ連れ去られた挙句、王妃にされてしまう。冥界に軟禁されたペルセポネに、ハデスが差し出したのが12粒のザクロの実だった。
 しばらく経って自分の娘が誘拐されたことを知った彼女の母・デメテルがハデスのもとへ抗議に訪れたが、時既に遅く、空腹に耐えかねたペルセポネは12粒の内の3粒を口にしてしまっていた。これがためにハデスの身勝手な振る舞いを正当なものとして扱わなければならなくなった。
 協議の結果、ペルセポネは1年の内3ヶ月を冥界で暮らすと決まった。こうして大地の女神が不在となる3ヶ月間は不毛の季節となり、これを冬と呼ぶようになった……という話はさておき。
 生きる糧をもたらしてくれる善き神からの賜り物を食べることには本来問題がないが、ここでは敢えて食物を口にする、という行為の取り返しのつかなさに着目したい。なぜならこの手の逆転現象がTVシリーズでも起きていたからである。
 完全にして永遠の楽園で暮らしていた男女が善悪を知る果実を口にしたことで追放され、永遠の生命を享受できなくなった、というタイプの神話に関して。人類はその文化史・宗教史において長い間、何も知らず傷つく危険のない無垢な世界を是として、そうではない現世を否定してきた。だがTVシリーズでは誰一人として、舞台少女にとっての楽園を実現させた大場を肯定する者はいなかった。立ち止まった大場自身も結局は楽園を捨てて外へと踏み出した訳で、これが既に神話における通説を逆転する試みであった訳である。
 こうした「“終わらない日常”の終焉」は2000年代に始まった日常アニメブームからの脱却を目指して数々の作品が挑戦してきたテーマであるが、その多くが「このままではいけない」という悲愴な焦燥感を含んでいたのに対し、レヴュースタァライトが極めて前向きな結論を導き出した点も特筆に値しよう。
 ……脱線したが、劇場版でもこの「セオリーの逆転」が起きているのである。つまり、トマトを口にすることは舞台少女としての死に直面していた彼女らを回生させると同時に、異世界(“劇場”という名の異常空間) の食物を口にしたことで現実世界を離れることになった……という、真逆の出来事が同時に起きたと言えはしないか。TVシリーズにおいて落下による無意識領域への遷移が舞台少女を劇場に導いたとするならば、劇場版では「黄泉竈食」がwi(l)d-screen baroque参加のための儀式であったのだ。
 愛城はトマトを口にしないがためにスクリーンという国境に阻まれて次の舞台へ辿り着けず、不毛な現実という砂漠を彷徨い歩いた。そこには目指すべき目標も何もない。だがやがて時間切れによる死が彼女を強制的に舞台に立つ者にとっての彼岸へと回生させる。トマトを食べることで死そのものを免れるのとはその本質に大きな差があることに注意したい。
 自身の過去と決別し、火葬を終えて晴れて復活を遂げた愛城は9人の中で唯一トマトの温存に成功し、アディショナルトマトを獲得する。神楽から手渡されたその赤い果実は「行く先に待つ困難に打ちのめされていつかまた道を見失っても、必ず舞台に戻って来てね」という“新”たなる“約”束の証なのである。

神楽ひかりの{
再・清算[RE:CLEARANCE]

 キリンからwi(l)d-screen baroqueが開演したことを告げられた時、神楽の顔には「動揺」の色が浮かんでいたように見える。それは彼女にとっては終わったはずの舞台。自分の分担だけを確認して大場の計画までは知らなかったといったところだろうか。一体何が起きているのかも問わずに神楽は再び舞台へ向かう──大場の手のひらの上で転がされていることにも気づかないまま(*8)。

 だが向かった先で待ち受けていたのは愛城ではなく、静かに怒りをたぎらせた露崎まひるだった……。

 ここまで私が展開してきた仮説に則って考えると、それを一切考慮しない場合と比較して露崎の心情は一層複雑になる。

 愛城のパートナーの座を譲ってあげた恋敵が姿を消した。1度ならず2度までも。理由も告げずに、忽然と。

 1度目はまだ良かった。最終オーディションで起きた出来事を残された8人全員が共有していたし、神楽が進んで犠牲となって自分たちを守ってくれたことも明白。事実関係がはっきりしていた。

 だが今回はどうだろう。愛城と2人でスタァライトできたその後で、突然立ち去ったのだとしたら。

 王立演劇学院でのオーディションで敗北を喫したことで失ったキラめきを、その時の神楽は既に取り戻していた。今更愛城のもとを去らねばならない理由が露崎には全く見えてこない。

 wi(l)d-screen baroque初演を知らない露崎から見れば、神楽は愛城のキラめきを奪って逃げたも同然なのだ。

 劇場版の愛城は最早神楽を捜そうともしていない。ただ嘆くだけである。その隣に寄り添っていた露崎の心境たるや如何ばかりか。劇場版において露崎と愛城は1度も言葉を交わさない。同じ画面に映るのも本編映像22分20秒のたった1度きり。だが、私には見える。観客が捉えた視界の外で、愛城を充分に慰めてあげられない自分の不甲斐なさを歯痒く思う露崎の姿が。それは、大切な人が自分を必要としていないことを絶えず思い知らされるということ。その苦しみは愛城に募らせていたはずのやるせない感情を、愛城を救える唯一の人物に対する怨念に変えてしまうに充分だった。

 とにもかくにも、追い詰められた末に自分自身の弱さを認めた神楽はもう1度、愛城との約束を清算すべく次の舞台へ進む。


*8 完全に麻痺してしまっていてこの間まで全く気づかなかったのだが、ロンドンの地下鉄から直通で東京に来た……って冷静に考えるとかなりおかしい。ド頭に皆殺しのレヴューがあったせいでこのくらいのことでは違和感を感じなくなっていたのだろうか。だがもし、地下劇場に構築された壮大な舞台セットによって神楽があたかも本当にロンドンにいるのだと錯覚させられていたとしたら……?

The train surely.../* 常在劇場の此岸を生き抜くサバイバル術*/

 私の仮説によって大きく読み解き方が変わるのはここまでだ。劇場版冒頭、宣告された死を回避すべく始めたwi(l)d-screen baroque初演の時点では、神楽も愛城も次へ進むには準備不足だった。「最後のセリフ」へ臨むにあたって愛城が役作りを必要としたように、神楽もまた己の弱さ・不完全さと向き合い、受け容れねばならなかった。その上で尚、愛城にとっての目指すべき「スタァ」を演じ続けることを誓う。かくして2人は「追う・追われる」関係から脱却し、ほんとうの意味で対等の関係を結ぶに至ったのだった。

運命は、志ある者を導き、志なき者を力ずくで引きずってゆく

ルキウス・アンナエウス・セネカ

かくしてwi(l)d-screen baroqueは完結する、神楽ひかりによる高らかな「ポジションゼロ」の宣言によって。神楽が始めた舞台を神楽自身が終わらせた。これは至極、当然のことであろう。

カーテンコールⅠ

 以上で本考察を終了します! 長々とお付き合いいただきありがとうございました! もっとも、今のところ自分の原稿が他の方と比べて長いのかどうか一切見当がつかないのですが……(舞台を降りたのでここからはデスマス調でお送りしマス)。

 2022年2月1日に発表された本企画。私が知ったのはその翌日でした。交流のある三兎群青さんに教えていただき、その日から書き始めて2月5日。この後書きをしたためております。

 実を言うと、今回の企画に寄稿するにあたってこの仮説で書けるのかを検討した際、神楽ひかりをクローズアップして解説しなければならなくなることに少しだけためらいがありました。……正直、ぶっちゃけ、神楽のことは9人の中で1番よく分からないと思ってたので。何せ私がこの仮説に辿り着いたのは今年の1月のことです。それまでは劇場版冒頭が本当に不可解で、時系列すら不明だし、一体何がしたいのやら相変わらずよく分からん黒猫だな、なんて……神楽に対してはTV シリーズから一貫してそんな印象を抱いていました。

 でも書き終えた今となっては、卒論で扱うことになったのも納得できていなかったからこその必然であったのかなと。おかげで劇場版での一連の行動が神楽なりの愛城への思いやりの結果だったのだと納得できてスッキリしました。……それに、本論の筆の入り方でバレていると思いますが私自身のお気に入りは露崎なので。神楽の行動についてほとんど無意識の内に露崎視点に立ってしまってたんですね。そんなことにも気づけたのが今回の収穫でした。あと何と言っても大場の用意周到さね。舞台全体を見渡す広い視野ッッ!!

 ……と、まとまらない所感はこのくらいにして。編集を進めていく中でまだ紙幅に余裕があると判明したのでもう少しお付き合いください。アディショナルタイムです。

カーテンコールⅡ

 私自身が『レヴュースタァライト』と出会ったのは最終回放送後の2018年10月頃でした。アニメ『少女革命ウテナ』全39話を観終えてロスに陥っていたところにTwitterで「ウテナっぽい作品がある」との噂を聞きつけたのがきっかけでした。

 ところで、レヴュースタァライトで監督を務めた古川知宏監督がウテナを始め数々のヒット作を生み出した幾原邦彦監督の直弟子であるというのは周知の事実かと思いますが、古川監督は師匠から独特の演出スタイルだけでなく作品に時代を反映させるセンスをも継承しているのではないかと思わされます。

 と言うのも、先日YouTubeで公開された、落合陽一氏と富野由悠季監督が対談する動画のダイジェスト版(*9)がなかなか衝撃的でして。ここで監督は「自分の作品で人類を革新しようと思った」と仰いました。しかし、20年間取り組んで失敗したと。

 思うに、富野監督は敗戦を経て信念を失った現代日本にある種の「イニシエーションの場」を作り出そうとしたのではないでしょうか。少年少女がある年齢になるとそこへ入って洗礼を受け、大人になって出てくる。そうしてそこへ戻ることは二度とない、といったタイプの。しかし、監督は予想できなかったのかも知れません。50歳を過ぎてもガンダムが好きなままの人たち、イニシエーションの場に入ったまま出てこない人たちが発生してしまうという事態を。その意味で、富野監督の次の世代を代表する作家である庵野秀明監督(*10)が、少年が大人になる過程を描こうとしながらも挫折してしまったのは象徴的です。還暦を迎えてようやく完結させることができたことも含めて。

 そもそも、常に利潤を生み出し続けることを宿命づけられた商業アニメという枠組みで、人生で1度だけ受ければ充分なイニシエーションを行おうというのは構造自体に無理があるように思えます。当然の帰結として精神の変容を促すイニシエーションの場は、神父がギターを弾いて歌い出す教会のように、徐々に居心地の良いカジュアルな場所へと作り替えられていきました。

 その結果どうなったか。アニメ文化が盛り上がっていくのとは裏腹に、その空想力が現実に及ぼす影響は却って小さくなりはしていないでしょうか。それはフィクションをフィクションとして楽しむ姿勢を誰もが身につけたと言うべきなのかも知れません(*11)。そうして子供が大人へ成長する物語を山ほど消費しながら、自分自身はいつまでもものを欲しがる子供のまま、世界を変えようと叫ぶ主人公に慰めを見出みいだしながらも何も行動を起こそうとはしない、ただ黙々とソシャゲに勤しむ経済にとって実に好都合なオタクが量産されたのですと言ってしまっては過言でしょうか。

 私自身の偏見が大いに入り込んでいる自覚はあるのですが、それでも古川監督はこの現代の傾向に問題意識を抱いているように思えてならないのです。

 例えば舞台挨拶でのコメント。劇場での鑑賞回数が10回を超えるファンも珍しくないことに対し、監督は決して歓迎する様子を見せませんでした。「鑑賞30回以上はノーコメント」とすら発言しているようです(*12)。これをどう捉えるべきか。

 監督ご自身は14歳の時に『新世紀エヴァンゲリオン』の洗礼を受けた言わばエヴァ第1世代で、生涯で最も影響を受けた作品であると度々仰っています(*13)。であればこそレヴュースタァライトがTVシリーズ及び劇場版と毎回完全に終わってしまうのは、ある作品に大きく心を揺るがされながらも長い間結末を与えられないまま待ち望み続ける苦しみを、自分のファンには与えまいと決心したがゆえの判断のように思えるのです。

 “終わらない日常”からの脱却を目指しながらも経済の論理に絡め取られ視聴者をソシャゲに誘導しなければならないという、幾度も繰り返されてきた悲劇からファンを解放し、かつ自身もクリエイター魂を悪魔から守り抜く大立ち回りを、知ってか知らずか“終わらない日常”勢力が誇る最も堅牢な牙城であるところのブシロードでやってのけた事実にドラマを感じずにいられません。

 以上の通り、劇場版が単なる娯楽作品でなくフィクションが本来持つイニシエーションの場としての機能を回復させる意図を持って作られていたとしたら、制作陣の願いが叶うかはレヴュースタァライトを受け取った我々にかかっていることになります。私個人としては、20年後の古川監督には今の富野監督と同じ発言をして欲しくないと思っています。そのためにも……

 ……そう、だから私たちは、最後には一人残らず立ち去らねばならないのです。そして、見つけなければいけない。私たち一人ひとりが持っているはずの、自分だけの舞台を──


*9 【落合陽一】富野由悠季監督「ニュータイプになるハウツーを人類に示すことができなかった挫折感は大きい」“今の世界”と“人類の革新”について『機動戦士ガンダム』シリーズの生みの親が思うこととは?
https://www.google.com/url?sa=t&source=web&rct=j&url=https://
m.youtube.com/watch%3Fv%3Dsq_QrLVamKo&ved=2ahUKEwjN76iTn8P
3AhWsmVYBHfWMDiIQjjh6BAgNEAI&usg=AOvVaw0ra0d12wVTGK0vAIv9rxT
(2022/04/14公開 2022/05/11確認)

*10 庵野秀明監督はかつて富野由悠季監督に師事して直接教えを受けていた。

*11 現代日本において強力なフィクションが現実に無視できない影響を及ぼした例としては1970/03/24に行われた『あしたのジョー』に登場する力石徹の葬儀が挙げられるだろうか。因みに発起人は寺山修司。オープニング曲の歌詞を手がけてもおり、『あしたのジョー』との関連は深い。

*12 2022/4/18/18:00の回、新宿ピカデリーで行われた舞台挨拶にて古川知宏監督がこのようにコメントしたとされている。

*13 MOVIE WALKER PRESS 「映画人が選ぶ、ベスト映画2021」
古川監督が選んだのは『最後の決闘裁判』『シン・エヴァンゲリオン劇場版』『キッズ・リターン』の3作。https://moviewalker.jp/special/best-movies/2021/?mwtw#34 (2021/12/23公開 2022/05/11確認)

*★ TV シリーズに関するものであるために本稿には盛り込めなかった考察の一覧を、悔しいのでここに置いていく。

  1. 愛城と神楽を対称の構図に置いて太陽と月を象徴していると考える向きがあるが、違う見方もできる。寧ろ愛城・神楽・露崎それぞれが太陽の象徴性を分有していることにこそレヴュースタァライト図像学の神話学的深みがあるのだ(3人1組の聖女/女神の例: 三人のマリア、モイライ、宗像三女神を見よ)。

  2. 第12話、運命の舞台において既に地下劇場にいながら更に地下深くへ降りていくことの心理学的意味について。

  3. TVシリーズのキリンは我々視聴者と同じメタな時間軸で生きている説。第1話のキリンは神楽との約束を知らずに愛城を地下劇場から追い出そうとしている。にもかかわらず、第8話ではオーディションに敗北した神楽に対し、愛城との再会を手引きしている。この矛盾を説明する仮説。

カーテンコールⅢ - 結びのセリフ-

 最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。

 実は同人漫画を描こうと頑張った時期もあったのですが結局完成させられず……表に出すものとしてはこの論考が最初で最後になりそうです……不甲斐ない……。それでも初めてTVシリーズ第1話を観た時から保ち続けた熱量は込められたかなと思います。悔いはありません……ありませんったら。

 最後に主催のさぼてんぐ様、寄稿者の皆様、その他有志の皆様、お疲れさまでした。そして素敵なイラストを描いてくださったりーち様! ややこしいラフをほぼ説明なしで理解して完璧に仕上げてくださいました。

 僅か2時間の映画で人それぞれ見える景色が違うって本当にすごいことですよね。そういう意味では今回の論文集はファンが作り上げた多声的ポリフォニックな集合知的記録でもある訳で、その一部に寄与できたことを大変嬉しく思います。

 この度は本当に、ありがとうございました!

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