メモ(2024.2-3)

2月から3月の上旬にかけてiPhoneで書いたメモ書きをまとめました。



思考を止めるのだ。流れに逆らってはいけない。数多の声がなす清流に身を委ねるのだ。ただ流される。ひたすら流される。流れるままに流される。逆行は疲労を生む。力を抜くのだ。川に浮かぶように思考する。己を解体していく。川の水。大量の水に己を溶かす。痕跡は消える。水になるのだ。

詩を感じたい時、おれは深呼吸をする。魂のリズムを変更するような感覚だ。小刻みなリズム、時計が針を刻むような日常のリズムを壊したい。それを破壊したら、自分の底で鳴っている、ゆっくりと胎動する音楽を掴み取ろうとする。呼吸が持続だとしたら、深呼吸はその破壊だ。詩は持続に埋もれている。
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詩を書く時、詩を感じる時、何かが切り替わる感覚がある。それは深呼吸とともに訪れる。ありがとう、という言葉が口を衝く。嫌なことを思い出した時、意識せざる暴言を吐いてしまうことがある。それは無意識のおれから意識上の俺への、反抗と思う。詩は抑圧されたおれの尊重である。だから感謝が口を衝くのだ。

母親が狭いワンルームで爪を切っていた。顔の皺が気づかぬうちにふえていた。体は数ヶ月まえよりも幾分か小さく見えた。爪切りの音は部屋の全体にひびいた。パチン。パチン。パチン。命を切り落としているような音だった。

空から見た海は無限の襞をなしていた。襞が地球という惑星の本性であるように思えた。襞のうえに平らな船がぽつりと浮いていた。それは無限の連鎖を阻害していた。やがて陸が見えた。雪で覆われていた。家々が、木々が、白々しい襞をなしていた。道路はそれをまっすぐに裂いていた。

イサクの不妊の妻であるリベカは主の寵愛のもとで懐妊したが、胎内で激しく動いている双子によって苦しめられていた。これについてリベカが主に尋ねると、胎内には二つの国民があり、その一方が他方より強く、兄は弟に仕えるのだという。かれらは生前であり、原罪にかんして等しい状況にあった。
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それにもかかわらず弟が兄に優越することに、パウロは恩恵の証明を見出した。アウグスティヌスはこれを、年上の民が年下の民に仕えるべく定められているということ、つまりユダヤ人がキリスト教徒に従属するということの預言的言明とみている。そしてそれは後に明らかに成就されているのだという。

線路のそばで慎ましく揺れている芒の群れを見ていると、しようのない罪の意識におそわれる。おれの一日も芒の一日も何も変わらぬ同じ一日であるはずなのに、おれのそれは乱れた脈拍のようで世界に歪みを与えたがるが、芒のそれはただ風にふかれ何も欲せず都市を見つめている。旅と漂泊の違いである。

渋谷駅のホーム。平日朝九時のエスカレーター。われ先にと登りたがる人びとで溢れかえって長蛇の列ができている。私はすぐに行かずにその光景を横から眺める。皆が手元のスマホに目を落としながら不機嫌そうにのそのそと歩いている。おじさん。少女。おじさん。青年。青年。おばさん。おじさん。彼らは固有の名を欠いていた。私だけが世界の外にいてはっきりと自己意識を保っている。私だけが世界への没入を免れている。人の波を見ながら世界内存在という言葉がふと頭に浮かんだ。世界内存在を分析してみせたハイデガーはただ独り世界の外にいたのだろうか。

人は変わり映えのない日常に裂け目を見出すために旅行をするが、物理的に有限な身体では、必然として限界に突き当たるだろう。そもそも反復をきらうのは精神であって身体ではない。現実は心の鏡だ。心の旅に出る。それを写す現実はたえず変化する。図書館さえあればどこまでも遠くに行ける。
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旅行は精神の必殺技のようなもので、居ながらにして旅に出、日常の風景を味わい尽くしたあと、初めてその真価を発揮する。日常の純度を高めるほど、その分だけ非日常の純度も高まっていく。動きすぎる人は、非日常を日常にしてしまっている。大事なのは日常を非日常にすることだ。空を眺めることだ。

元気が出る夏の曲は夏でなくても元気を出してくれるが、宇多田ヒカルの『真夏の通り雨』だけは夏の蒸し暑い夜に聴かないと真に聴いた心地がしない。それくらい夏という一つの現象のぼやけた輪郭を逃さずにとらえていると思う。
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メロディーも歌詞も、夏の季語のようなものを的確に用いているような感じを受ける。季語と言っても夏草とか五月雨とか言っているのではなくて、夏動詞、夏形容詞、夏名詞、夏助詞、と存在しない語を措いてみるが、一つひとつの言葉に夏というモチーフが染み込んでいるような、そういう天才性がある。
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太宰治の人間失格には喜劇名詞と悲劇名詞をふざけて当て合うという謎のゲームをする場面があり、汽船や汽車、煙草は悲劇で、市電やバス、医者は喜劇だと分別し、なぜそうなのかわからぬ者は芸術を論ずるに足らんというが、何気ない動詞や名詞にも季節の感があり、宇多田ヒカルはそれを掬う感覚が異様に鋭い。
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夏は『真夏の通り雨』を聴くために用意された季節である。

サムエル記上には「あなたの家とあなたの父祖の家とは、永久にわたしのいる前で歩むであろう」という預言がある。この預言は祭司であるエリに対して示されたが、同時に「あなたの家に残ったものはすべて人びとのつるぎによってしぬであろう」とも告げられており、それらは一見矛盾するように思われる。
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アウグスティヌスによれば、前者の預言は、エリのあとを継承したサムエルが象徴する「永遠の」祭司職に関係するところであるが、後者の預言は、アロンに始まりそれを継いでエリにまで至る祭司職そのものの死を示しているのだという。前者はキリスト・イエスに関係し、後者はユダヤに関係している。
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アウグスティヌスはさらに立ち入って、アロン系列の祭司職は来たるべき永遠の祭司職の影として立てられたのだと考察する。永遠性の約束は「象徴」に対してなされたのではなく、「象徴されたもの」に対して約束されたのだ。このアナロジーは、サウルとダビデの王国についてもそのまま当てはまる。
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このことからサムエルがサウルに「いまやあなたの王国はあなたのために持続することはないであろう」と告げたことが理解できる。サウル自身の王国が永久の支配を定められたのではなく、その王国によって象徴されたところのものが持続したのである。それはさらに持続していくだろうといわれる。
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このアウグスティヌスのある種の辻褄合わせにはキリスト教の手口が如実にあらわれているように思う。キリスト教は《物》に対する《言》の優位、あるいは《言》が《物》にむすびつく力において成り立っている。ヨハネによる福音書が「初めに言があった」と始まるのはそういう意味で必然であり、詩は、《言》と《物》の神話的結合を取り戻さねばならない。

瓦の屋根。かわらぬだけ。うずらの羽根。かたわの姉。輩の真似。サハラの果て。光の輪へ。まるめて捨て。賢しら御免。狩場の時計。儚き汚泥。仲間の罵声。やること決めて。わが子に加勢。箱入り娘。さわらぬ神へ。八岐大蛇。むかしの風景。すぐに忘れて。室生の犀星。劈く奇声。俵を海へ。捨てて忘れ。

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