20240801

 
 眠っているとき俺は唯物論者である。眠りから覚め、意識と肉体が一致していく過程において、唯心論者に転向する。俺の肥大する心はまずスマートフォンを捉える。インターネットで『地面師たち』というネトフリのドラマが話題になっている。民法の試験勉強のおかげでその言葉を知っている。見始める。面白すぎる。面白すぎると俺は走り出したくなる。裸足のまま熱されたコンクリートに踏み込む。家の前に仕掛けた毒餌の近くで巨きなゴキブリが死んでいる。レイコさん、あなたが殺すと口にするたび、その想像力のなさに苦々しい気持ちになっていました。ハリソンのいう想像力とは何なのか。生命を奪うこと、ひとつの個体の可能性を無に帰することに対する畏怖なのか。そうではなく、彼のいう「想像」は、より強力なエクスタシーを可能ならしめる禁欲の遊戯にすぎない。かつて田村隆一という詩人がいた。〈一匹の野良犬の恐怖がほしいばかりに、/四千の夜の想像力と四千の日のつめたい記憶を/われわれは毒殺した〉彼が詩のために戦後十年、四千の夜の想像力を殺さなければならぬのなら、俺は生後二十年、八千の夜の想像力を眠らせるまでである。俺は彼とちがって戦争(=剥き出しの暴力)を経験していない。だから俺にとって詩は死ではなく眠りの一形態なのだ。ゴキブリは腹を見せて死んでおり、太陽は容赦なく彼の黒を灼いている。太陽を欲するならば、いったい何億の夜を殺さねばならぬのだろう!

…………………

 夢を見た。谷崎潤一郎『細雪』の上巻を買う夢だ。俺は細雪を中巻からしか持っていない。青空文庫で読んでいたからである。いつもの最寄りの本屋の新潮文庫のコーナーで立ち止まる。た。谷崎潤一郎。夢にもかかわらず明瞭だ。細雪の上巻を手に取り値段と睨めっこする。五百円に俺は悩みぬく。生活費のあれこれを脳内で計算する。慣れた計算である。覚悟を決めてついに購入したところで目覚める。夢の中でまで自分の魂が五円玉の小さな穴をくぐりぬけねばならぬことに恥じ入った。
 思えば浪人生のころはいつも細雪を読んでいた。金がないから予備校には行かず毎日札幌の街を漂白しながらひとりで少しずつ勉強を進めていた。昼飯はいつもセブンイレブンのメロンパンとカレーパンだった。冬はセブンのおでんを食べた。大根と卵を食べた。札幌の中心部で道端の白い防護柵に腰をかけて食事をする。スマホの青空文庫で細雪を開く。小説という媒体の驚くべきところは何といってもやはりそこに時間が流れていることである。谷崎潤一郎は細雪において最も粘性の強い時間を流すことに成功している。一文字目を読み始めると延々と読み続けてしまう。細雪は魂の器である。細雪を読むと小説に身体を乗っ取られるような感覚に陥る。意思に関わらず自分の人生が続いてしまうように読むことが続いていく。受験に落ちてどこにも所属せず人生が休止した俺にとって、細雪を読むことは、一つの救いであったように思う。そこには確かに時間が流れていた。あのころの俺は、半分は札幌人でありながら、もう半分は蘆屋人であった。
 札幌に雪が降る。細雪である。十二月の札幌は細雪とよばれるにふさわしい静かな雪が降る。雪は延々と降りつづける。雪子を思う。縁談を断る雪子の物憂げな顔を俺は確かに見たことがある。もちろん見たことはない。だが、確かに見たことがあるのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?