20240805

 フワという者が炎上している。俺はこいつをよく知らないが、フワは隠すべき悪口のツイートを公開アカウントでしてしまい、それが非難を浴びているらしい。インターネットの茶飯事である。百姓たちの祝宴である。「クソだ」「胸糞」「性格悪すぎ」などとフワを揶揄するツイートが大きく伸びており、自身の道徳的正当性を知らしめることができてインターネット百姓たちは満足気である。中でも気にかかったのは、フワの態度がまるで「いじめっ子」だとして非難する者である。いじめとは何であろう。赤坂憲雄という天才がいる。民俗学者である。かれの感嘆すべき知の大伽藍から覗く洞察眼は「いじめ」という現象の本質を抉り出している。〈差異の消滅。この秩序の危機にさいして、ひとつの秘め隠されていたメカニズムが作動しはじめる。全員一致の暴力としての供儀。分身と化した似たりよったりの成員のなかから、ほとんどとるに足らぬ徴候にもとづきひとりの生け贄(スケープ・ゴート)がえらびだされる。分身相互のあいだに飛びかっていた悪意と暴力は、一瞬にして、その不幸なる生け贄にむけて収斂されてゆく。こうして全員一致の意志にささえられて、供儀が成立する。供機を契機として、集団はあらたな差異の体系の再編へと向かい、危機はたくみに回避されるのである。〉(『排除の現象学』)眠すぎる。今日は彼女の家で起きて、出勤に合わせて朝から電車で帰ってきた。口内炎が痛すぎて朝マックをよく味わえなかった。もう少し具体的なところを引こう。〈小さなウソや約束破りがときに、執拗ないじめの契機となるのは、そうした此細な違背行為が子どもたちのかたちづくる共同性を根底から脅かすものであるからだ。現代の子どもたちの共同性はきわめて脆弱で、不安定なものであり、強迫的な規則=掟によってしか維持しがたいものと化している。そこには安定した秩序も、ヒエラルキーも存在しない。子どもたちはその共同性を、たとえば給食を食べる順序を仲間で統一するといった掟によってかろうじて守ることしかできない。〉ここでの「子どもたち」を「インターネット百姓たち」と置き換えてもまったく文意が乱れることはないだろう。はやく口内炎が治ってほしい。口内炎があると自己の完全なる肯定から離反してこんなつまらぬ文章を書いてしまう。かれらはいつまで経っても確立されない自己同一性を求めてインターネットをさまよう亡霊なのである。〈あきらかな差異によって隔てられることのない、分身化した子どもたちは、模倣欲望にもてあそばれながら、とぎれることのない相互暴力(いじめのさやあて)の渦中にまきこまれている。自己と影との小さな殺戮の劇が、一過性の単発ドラマとして、教室のあちこちで演じられつづける。いじめる=いじめられる関係が固定したものでなく、しばしば逆転し、いじめられる対象がくるくる変わるといった、現在のいじめに特異な光景は、差異の喪失状況、つまり分身化と相互暴力の段階に対応している。〉すでに明らかなように、いじめとは供儀であり、それは共同体の根源に根ざしているシステムである。百姓たちは互いが似通った百姓たちであることを確認するために、ひとりの異人を生け贄として殺害する。フワとインターネット百姓、どちらが「いじめっ子」と呼ぶにふさわしいであろうか。もちろんやす子に百姓くさい悪口を吐いたフワもまた百姓の一員である(「死んでくださーい😅😅😅😅😅」=スケープ・ゴートへの宣告!)。ああ眠い。こんな文章を書いて何になるんだ!〈供儀としてのいじめ。全員一致の暴力=供儀のメカニズムとは、あらゆる共同性が秘め隠している禁制のもっとも抗いがたい、根源的なものといえる。それゆえ、いじめという名の供儀に背をむけることは、一人ひとりの子どもにとってはかぎりなくきつい課題であるはずだ。幼いおののきと畏れに身を震わせることなしには抗いえぬ、共同性の深部に横たわる供儀、としてのいじめ……。〉ああ眠い眠い眠い!全員くだらなくてしかたがない!なぜ俺はこんなにも素晴らしい人間なのだろう!供儀に参加しなくとも自己同一性をおのれ自身で確保している!それは己の内側に神を発見しているからである!ああ神よ、はやく俺を安息のうちに眠らせてくれ!

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