2020/10/30の星の声
行く先は、海の底の世界(前編)
地上に暮らすほとんどの人間が、海の底の世界へ行く方法を知らないどころか、海の底に世界があることを知りません。
神話などの伝説やオカルト的なウワサでその存在を知ることができたとしても、たいていの場合、誰も信じることはないのです。
あるクジラの子どもは、海底探査船に乗る人間の会話を聞いて、呑み込んだ魚を生きたまま吐き出してしまうくらいに驚いて、ぶくぶくと泡を立てました。人間が、海の底の世界を信じる気なんてほとんどなかったからです。
クジラの子どもはラッタンと言います。ラッタンはすぐに物知りのお父さん、パパタンの元へ向かいました。
パパタンは幼い頃、人間の漁師に捕まったことがありました。でも、あまりに小さかったため、食べられることなく、海に返されたそうです。そのかわりに、パパタンのお母さんは、人間に捕まって海から陸へ連れて行かれてしまいました。
一見すると悲しい出来事のように思えますが、パパタンも、そのお母さんも、悲しいことはひとつもありませんでした。クジラにとって、人間に身を差し出すことは、人間を救うことだったからです。パパタンはお母さんを誇りに思いました。それと同時に、もっともっと大きくなって、いずれは人間を救えるくらいに大きなクジラになりたい、とパパタンは夢を膨らませました。
パパタンは、お母さんクジラと一緒に捕まった時、しばらくの間、人間たちに囲まれて浅瀬でひとやすみしていました。その間に、口ずさむようにして人間の言葉をたくさん覚えたのですが、その時、パパタンは不思議に思いました。
人間の言葉と限りなく似ている響きが、深い海の底からも聴こえてきた覚えがあったからです。
滅多なことがない限り、海の中で人間の声を聞く機会はありませんでしたから、パパタンはよく海の底すれすれを泳ぐようにしていました。
そうやって生きてきたから、パパタンは物知りになったのだと、海の生き物たちの間では有名な話です。
ラッタンは、海の底に向かって、深く深く潜って行きました。そこには世界一大きくて深い海溝があると、パパタンから聞いていた場所でした。パパタンは、大きな海溝の入り口のそばからふわふわと立ち上る温かな海流に身を寄せていました。気持ちよさそうに目をつむるパパタンは、深く潜れるようになったラッタンのことをまず褒めました。
「お前さんもすっかり一人前のクジラだな」
パパタンはとろんとした温もりのある瞳で、ラッタンを見つめました。ラッタンも、あたたかな海流に身を委ねながら、海底探査船から響いてきた人間の話について、パパタンに話しました。
すると、パパタンは口を大きく開けて笑いました。近くにいた貝たちが驚いて、貝殻の中に身をひそめるほどの大きな声でした。
「今にわかるさ」
パパタンはそう言いました。ラッタンには何のことかさっぱりわかりませんでした。
それから何日か経って、イワシの群れと遊んでいるラッタンの元へ、パパタンが海の底からゆっくりと現れました。その日は月明かりが海深くまで届く特別な日でした。月が出る前にできるだけ深くまで潜ろうと、パパタンはラッタンを連れて、あの大きな海溝の奥へ奥へと潜っていきました。ラッタンにとってそれは初めての体験でした。
あたりがどんどん暗くなる中、ラッタンたちの正面から、いくつかの小さな光がついたり消えたりしながらゆらゆらと近づいてきました。それはチョウチンアンコウでした。ラッタンは初めて見るその光に心を奪われました。
「父さん、あれは星かい?」
ラッタンの問いかけに、パパタンは口元から泡を出して答えました。
「いいや、あれは星じゃない。でも、星とつながっているんだよ」
ラッタンがさらに尋ねようとすると、先にチョウチンアンコウが口を開きました。
「パパタン、思ったより早かったね」
パパタンは胸を張って答えました。
「ラッタンが深く潜れるようになったからさ。ぼくも驚いているよ」
チョウチンアンコウはラッタンのことをじろじろと見つめました。ラッタンはラッタンで、チョウチンアンコウの頭から生えている星のまたたきをじっと見つめていました。
「もうすぐこのあたりまで光が届くんだろう?」
パパタンは、チョウチンアンコウに問いかけました。チョウチンアンコウはパパタンの方を見ずに、ラッタンのことを見つめながら答えました。
「そうだね。相当な数だし、これが最後だからね」
ラッタンはその会話の意味がよくわかりませんでした。ラッタンはチョウチンアンコウのまたたく星から目を離してパパタンを見ると、パパタンは頭上を見上げてぶつぶつ言いながら、しきりに何かを確認していました。
ラッタンも同じように上を見上げてみましたが、上だけでなく、下も真っ暗でした。ラッタンは突然怖くなって、パパタンのお腹の下に隠れました。そこは幼い頃からラッタンが一番安心できる場所でした。
「大丈夫さ」
パパタンがそう言うと、うっすらと視界が明るくなってきました。ラッタンはパパタンのお腹の下にいるまま、あたりを見回しました。すると、大きな光のすじが何本も、すうっと海の底に向かって伸び始めました。あまりにもキレイな光にラッタンは思わず、「わあ」と声を上げました。
「そろそろだね。パパタン、先に行ってるよ!」
チョウチンアンコウは、相変わらず頭から生えたまたたく星を連れて、光の筋が伸びる海の底へと潜っていきました。パパタンは胸びれでラッタンの頭を優しく撫でると、ラッタンを抱え込むようにして、チョウチンアンコウが向かった方を見やりました。
「ラッタン、海の底の世界へ行くよ」
ラッタンを抱いたパパタンはカラダをぐるぐると回転させて、渦のような海流をつくると、そのままものすごいスピードで深く深く潜り始めました。その横で、じわりじわりと奥底に向かって伸びる光の筋は、いつの間にかどんどん膨らみ、海底は信じられないくらいに明るくなりました。
ラッタンはあたりを見渡しました。その様子は、これまで過ごしてきた海の中とはとても思えませんでした。心なしか水圧や、滑らかな水の感触すらほとんど感じません。ラッタンにはその理由がわかりませんでした。
周りの景色がどんどん明るくなる中、パパタンは相変わらず胸びれでラッタンを抱え込んだまま螺旋を描くように海の底へ向かって泳ぎ続けていました。しばらくすると、何やら音が聴こえてきました。それはラッタンも聞いたことがある、人間の声のようでした。こんなところに人間がいるのかと、ラッタンが思っていると、パパタンは胸元を優しく振るわせてこう言いました。
「かつてこの星にいた人間たちが、次の満月で全員帰ってくるんだ」
ラッタンには、パパタンの言っていることの意味がよくわかりませんでした。するとパパタンは付け加えるようにして、ラッタンに言いました。
「どんな海の底よりも深く広い場所には、この星の内部に生きている人々がいるだろう? お前さんがよく聴く、あの声の人々だ。その彼らの先祖にあたる人々は、これまで、空の遥か彼方に浮かぶ月に住んでいたんだが、もうこの星に帰ってくることになったんだよ」
「どうして?」
ラッタンはすぐに尋ねました。パパタンは胸びれでラッタンをぎゅっと抱きしめると、つぶらな瞳を細めて答えました。
「その理由を、今から確かめにいくんだ」
ラッタンとパパタンは、そこがほんとうに海の中なのか、いよいよわからなくなるところにまでやって来ました。水の感触が一切感じられなくなったその場所は光がすみずみにまで行き届いて、深海の暗闇とは正反対の真っ白に思えるほどの明るさでした。
ラッタンたちの他にも、様々な生物がやって来ていました。あのチョウチンアンコウもいました。比較的浅いところにいるはずの生き物だけでなく、優雅に空を舞う種類のわからない鳥たちや、四足の足で立つ見たこともない生き物、中には信じられないくらいに鼻や首が長いものや、大きな角を持ったものまでいました。
パパタンもまたその不思議な光景に目を奪われていましたが、それは他の生き者たちにとっても同じことだったようです。その場に集まった生き物たちは、弧を描くように並んでいましたが、その中心にはひとりの人間がいました。
薄くて光沢のある白っぽい服に身を包んだその人間は、その場にいられることに胸を打たれているのか、輝く笑みを浮かべながら、さまざまな生き物が集まる空間をていねいに見回していました。人間は大きく息を吸い込むと、ラッタンたちを含むすべての生き物に向かってこう言いました。
「みなさんのおかげで、ようやく帰って来ることができます」
ラッタンには身に覚えのないことのように思えましたが、突然、ラッタンは体の真ん中あたりが、ぶるぶると震え出すのを感じました。それはラッタンだけでなく、他の生物たちも同じようでした。人間は続けました。
「最初は地の底にある世界へ戻ろうとしていたのですが、いろいろと考えた結果、月に住む私たちの多くは、海の底の世界で生きていくことに決めました。みなさんと一緒に、この星で生きていけることが嬉しくてなりません」
ここで、パパタンが口を挟むようにして月の人に尋ねました。
「あなたらが海の底へ来ると言うことは、あなたらもまた、私たちと同じように地上の人間に命を差し出して生きていくのですか?」
月の人は、にこやかな表情を浮かべたまま答えました。
「いえ、そのようなことはありません。むしろ、彼ら地上の人々の多くが、海の底の世界へやってくることになるんですよ」
(つづく)
今週は、そんなキンボです。
こじょうゆうや
あたたかいサポートのおかげで、のびのびと執筆できております。 よりよい作品を通して、御礼をさせていただきますね。 心からの感謝と愛をぎゅうぎゅう詰めにこめて。