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使徒の働き6章8〜15節、7章54〜60節 「だれの愛が、世界を救うのか?」

愛が美しく、
言葉では説明しきれない何か神聖で特別なものであることを
私たちは誰もが知っています。

イエスは、
「たとえその人が悪人であっても、彼は自分を愛する人を愛している」
と言われました。

しかしイエスはご自分の弟子たちには
「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」と教えられたのです。

私たちは愛を行うために、それぞれの場所にいつも遣わされています。

世界が本当に必要としているのは、神の愛です。神の愛とは、敵を赦す愛です。


ステパノは人々から石打ちにされ、
死が近づいている時に祈りました。
「主よ、この罪を彼らに負わせないでください。(使徒7:60)」

それがイエスの十字架上での言葉に倣ったものであったことは明らかです。

「父よ、彼らをお赦しください。
彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。(ルカ23:34)


受けた被害が甚大なものであればあるほど、
「赦す」という行為は私たちから自然に出てくるものではありません。

時間や物理的な距離が空いて関わらなくなると
忘れたように思えることもありますが、
実は傷は傷のままで残っています。


むしろ「目には目、歯には歯」という古いしきたりの方が、
私たちにはしっくりくるのです。

「赦す」ためには、赦す側が多大な犠牲を払わなければならならないからです。


私たちが
互いに復讐し合わなければ帳尻がとれないこの世を、
それでも神は愛されました。


ひとり子イエスのいのちを十字架で犠牲にすることによって、
神はその愛を私たちに示してくださいました。

「父よ、彼らをお赦しください」というイエスの祈りの彼らの中に、
自分自身が含まれていることを本当に知り、
その赦しを受け取る時、私たちもまた神の愛で隣人を愛し、
迫害するもののために祈る者へと変えられるのです。

議会でステパノを裁こうとしていた人々が彼を見ると、
彼の顔が御使いのように見えたと6章にはあります。

ステパノ自身は天を見つめていました。

それぞれ、「じっくりと観察する」という意味の見るです。

イエスの十字架で示された神の愛が自分のためであることを、
今日も聖霊によって、じっくりと見て、受け取らせていただきましょう。

また、この夏も各地で青少年を対象にした
キリスト教のキャンプが行われています。

参加している若い魂が隣人を赦すために遣わされていきますように、
ともに祈りましょう。


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