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使徒の働き5章33~42節「神からの思いをいただいて」 2023.7.9 礼拝説教要約

ガマリエルは、
イエスの弟子である使徒たちと、
彼らを裁こうとするユダヤの宗教家たちとの間に立ちました。

彼の言葉は、
ペテロたちを中心にしたムーブメントが
当時の良心的な人々の目にどう映っていたのかということを示しています。

「自称メシアを名乗ったナザレのイエスとその弟子たちが巻き起こした熱狂」
として彼らの目には映っていました。

しかし一方でガマリエルは、
その人がメシアと自称・あるいは解釈されているならば、
自分たちは一時の感情に任せず、慎重な吟味と時間が必要が必要があると
強調しました。


私たちは時に、
「神様から思いをいただいて」ある仕事や奉仕に携わることがあります。

この「思い」を表現することは、
私たちも自身について「キリストの代理人」であると
自称・自認することでもあります。

この自称が本物かどうかをセルフチェックできる基準が2つ、
使徒の働き5章では見られます。

ひとつが動機を吟味することです。
自尊心や競争心、これまで虐げられてきた自分の人生を逆転させたい、
そういった人間の内側から始まった働きは長く続きにくいものです。

もう一つは、
そこに喜びや慰めとしてのいのちを生み出しているかどうかです。

直前の19節で、使徒たちは御使いによってこう語られました。

「行って宮の中に立ち、人々にこのいのちのことばをすべて語りなさい。」

かつて、メシアを自称していたナザレのイエスについて、

バプテスマのヨハネさえも疑いを持ちました。

イエスは、結んでいる実を見て判断しなさいと言われました。

一方で私たちは、

内面においてグラデーションをもった存在です。

純粋に「神からの思い」として始めても
時間の経過や外側の事情によって思いが変化することがあります。

時には「神からの思いによって」、働きを終わらせることもあります。

しかし神様からの思いをもって始める時、
そこに困難があっても確かにいのちが生み出されるなら、
それは聖霊による保証です。

「キリストの代理人」である私たちを通して、神は今週もそれぞれの場所によろびと慰め、回復を与えてくださいます。


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