寺尾紗穂「天使日記」より④
寺尾紗穂『天使日記』収録「天使日記」より一部転載
4月13日
子供たちが家に帰ってきたとき、この日は私も家にいたので、「ねえ、連れて行って」ときぬに頼んで四人で公園に行ってみる。児童館の前の道を挟んですぐの、大きな桐の木のある小さな公園だ。狭い公園はサッカーをする子たちで騒がしかったので、しばらくは現れない。今日は無理かなと思いかけたとき、きぬが目で現れたことを教えてくれた。見えない。私は昔、「あなたの役割は子供でいること」とその筋の人に言われたことがある。そのときはまったく意味がわからなかった。王様は裸だと言った少年のように正直でいることだろうか。シュタイナーは、人間の生命力には死に向かって次第に弱まっていく性質のものと、力強く集中的なものと二つが見られると言っている。前者は意識することや表象に結びつくのに対し、後者は無意識から起こってくる意志に結びつき、これを真の意味における生命力である、としている。
ここでシュタイナーが言う「子どもの生命力」や、力強く集中的で、無意識から起こる意志のようなものが「私の役割」に結びついているのだろうか。私は大人になっているはず(?)だけれど、周囲がどんどん死に向かう生命力に切り替わっていくなか、なるたけ長く「子どもの生命力」を使って生きていくことが定めということだろうか。
いずれにせよそう言われたこともあって、私はもしかしたら天使が見えるのではないかと思っていた。けれどまったく見えなかった。エネルギーは子供でも思考はしっかり大人になってしまっているようだ(本当に?)。残念。きぬが通訳してくれる。
「何歳で私(注:きぬ)を生んだかって」
「26歳だよ。あなた(注:天使)はとても綺麗ってきぬから聞いているけど、見えなくて残念」
「お母さんのほうが綺麗だって。会えて喜んでる」
お世辞のうまい天使だ。別れ際、きぬが視線をすーっと上に向けて、天使が去ったことがわかった。四人で公園を出て、家に向かって歩き始める。しばらくするときぬがわっと驚いている。天使が一緒に帰ってくれるらしい。うしろからついてくるさきが「みえるみえる!」と言っている。ゆいは今日はよく見えないようで「どうしたら見えるかな」と言っている。さきはよくうしろを振り返っているので聞いてみると着物の子も二人ついてきているという。ピントが合っていろいろなものが見えてきているのかもしれない。もともとさきは、家に向かう途中の畑の奥にある大きな石にも「いつも白い服のおじいさんが下を向いて座っている」といっていた。私はそれ以来気になってしまい、「今日はいる?」と毎回聞いていたら「あの人はいつもいるから大丈夫だよ」と言われてしまった。何を落ち込んでいるのか、何を待っているのか、どうして成仏できないのか、はたまたもう成仏してるのか、よくわからないが、彼も別に危険なものではないようだ。
天使とは坂のところで別れるようで、きぬが手を振った。しばらくしてさきがまたうしろを向いて手を振っている。誰に、と聞くと着物の子たちだという。幽霊なの? と聞くと、「違う、かわいい子」と言った。幽霊には私たちは恐ろしいイメージばかり植えつけられてしまっている。日常から遠ざかれば遠ざかるほど、対象は怪物化し、恐怖の対象となっていく。ちょうど山にこもる聖なる巫女たちの残像が、人食い山姥になってしまったように。
成仏という仏教の考え方も、少し画一的ではないか、という気がする。つまりこの世には、成仏できないほどの恨みを持って死んだ魂はむしろ少なく、無邪気に、いつもそこにいるのが普通、というようにこの世にとどまっている魂がたくさんいるようだ。この世にとどまっている、というのももしかしたら不正確で、もう一つ別の次元で生き続けているのかもしれない。本当はもっと、たわいもなく、風のように、異界のものたちがすぐ隣にいるのだろう。
この日天使がどんな花飾りをしていたか聞くのを忘れてしまった。
寺尾紗穂『天使日記』より⑤ につづく
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