影の光線 1/XX

6月27日(金)朝

 自分の成長を自分で感じることは果たしてあるのだろうか。
 Or maybe it will be like this forever.

 Xとyは一度だけ交わり、潔く別れて二度と交わることのないそれぞれの進路を進む。
 この潔さを学ばない私たちは、過ぎた日の栄光にうぬぼれ、将来の夢の設計に没頭する。あるいは、後悔の念に執着し、平素を装いつつも絶望したと思えば、まだ見ぬ明日を見ようとやきもきして、来るとも知れぬ明日に向かって駆け出す。
 過去への反省と未来への希望が人類を成長させてきたと考えるかもしれない。君主制や奴隷制の廃止や核軍縮への動きは、過去の過ちを正そうとする動きが政治に反映された結果であるし、人類の学び、better versionへの歩みといっていいだろう。
 紫陽花が枯れないことはないように、夏が終わらないことはないように、私たちが死なないことはない。それなのに、紫陽花は静かに次の六月を待つのに、夏は秋にバトンを渡すのに、私たちは現在を享受するよりも過去と未来に憧れる。

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 五分間隔のスヌーズは三回までと決めているけれど、結果二十分後に四回目のアラームでベットから起き出す。「十五分早く起きてたら朝食前にヨガができたのに」と報われることのない不満と朝の気怠さを感じながら、「朝食はしっかり食べないと」を言い訳にメロンパンをトースターに入れ、電気ケトルにスイッチを入れる。
 焼き上がるのを待つ間、昨晩洗った食器をなおしつつ、今日は何を着ようかと考える。大差ないアウトフィットオプションに無理やり甲乙付けながらパソコンを立ち上げ、間延びした「チーン」を合図にキッチンへ戻る。インスタントコーヒーと豆乳でカフェオレを作り、指先をやけどしながら焼きたてのメロンパンを皿に移してテーブルにつく。

 さて、今日も血糖値を上げて頑張ろうではありませんか。

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 身支度をして自宅を出る。この瞬間、持ち物を再確認して電気を消しドアを開け、一歩外に出て反転し鍵を回すこの瞬間が、私にとって内と外を分ける瞬間である。私が三年半かけて作った、私だけのnestを抜け出し、たくさんの人やもの、それらが放つ様々な色や音が織りなす指揮者のいないアンサンブルに(いやいやながら)足を踏み入れる。
 駅に向かって歩き出すと、次第に脳が機能してくることに気付く。自宅に向かって後ろ髪を引く勢力は弱まり、仕事のことだけなく、ランチは何にしようかとか、帰りにスーパーで何を買って帰ろうかとか、今日消化したいタスクに時間を配分していく。金曜日の今日は、帰りにDVDを借りて帰るのも忘れてはならない。
 あれこれ考えているうちに最寄り駅に到着、改札を抜けて後発の当駅発電車を待つ列に加わる。乗り継ぎを考えいつも同じ車両に乗るが、もはやこの時間にこの電車のこの車両に乗る人の顔ぶれは定着している。順序もだいたい決まっていて、オレンジリュックのおじさんAと読書家のおじさんBを先頭にゆるーく二列に並ぶ。

 お名前は存じ上げませんけれど、おそらく徒歩圏内に住んでいるご近所のみなさま、今日もおはようございます。

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 高校受験で進学校に合格、卒業生のほぼ全員が国公立大もしくは有名私大に進む学校で勉強する中、ぼんやりながら「安定した将来」に向かう軌道に乗ったことを実感した。 試験対策強化週間には朝七時半から授業が始まり、夏休みや冬休みには様々な補習講座が開講され、任意参加であるにも関わらず大方の生徒が参加した。文武両道を掲げるその学校は、日々の授業や全国偏差値アップに力を入れるだけでなく、部活動や学校行事にも生徒の主体的な参加を求めた。 結果、運動部で毎日汗を流し輝く青春を送る学生と、文化部で和気藹々と放課後の教室に緩やかな活気を持ち込む学生にほぼ二分していた。
  他方、この学校にも「ギャル」と形容される生徒がいて、「文武両道」の言葉が醸し出す汗臭さを否定する彼女たちは、ポスト・女子高生期を先取りしていたのだろうか。しかし、そんな彼女たちも体育祭や文化祭となるとクラスと一致団結し、おそろいのTシャツ作りや屋台のシフトに参加していたし、むしろクラスを先導している時ようでさえあった。それは何より、どんなにスカートを短くしていても、その高校の制服を着て街を歩いているだけで、少なくとも高校受験の「勝ち組」で、将来を期待できるティーンエイジャーの一部になったことに、みんな少なからず自信を抱いていたからではないか。
 高校を卒業して十年以上がたった今、かつて垣間見た「安定した将来」や「可能性」は私の指の間をすり抜けてしまった。二度の転職の度ステップアップはしてきているものの、現職が大好き!といえるわけでもなく、また「充実したプライベート」への入り口も見つからない。かといって、特段人生に思い悩むこともなければ苦労することもなく、行こうと思えば週末ディズニーランドに行ったり有休をとって海外旅行に行ったりだってできる。思えば、平凡な学生時代を過ごしてきた私が、社会人になって非凡生活から突然偉業を成し遂げる見込みはそもそも限りなくゼロに等しいのだ。
 不安を抱えつつプチ自暴自棄と根拠のない自信の間を行ったり来たりする中で思うのは、高校三年の現代文で読まされた「舞姫」で、青春真っ盛りで希望に満ち溢れた高校生に、「エリート街道」を進む豊太郎が結局異国での愛より母国でのキャリアを選択し、そのために可憐なエリスが自身を見失っていくさまを観察させるとは、なんと残酷だったろう。もしくは、教育委員会の「えらい」大人たちはこれを反面教師としてほしかったのか、あるいは、青春を勉強に奪われ、休日出勤も厭わないふりをしながらやっとの思いでえらくなった大人たちによる妬み恨みの末の嫌がらせだったのか。

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