生きることは食べること、しかしそれは味気のないレーションでいいのか?

今週気づいたこと。
(今週気づいたこととは今週気づいたことではないです)

ダンジョン飯とARMORED CORE 6の話が出ます。
特にAC6についてはぼかした上で3周目に言及をします。

 ダンジョン飯が無事完結した。
 アニメも今のところは不満もなく、2クールでは無理そうだが、できれば最後までやってほしい。
 魔物を現地調達で食べながらダンジョンの深部を目指すというコンセプトであり、一見すると一発ネタとも思えるものだったが、途中もダレることなく、最後までそのコンセプトからズレることなく走りきったと思う。
 食料が乏しいと(周りには)認識されているダンジョンを舞台にしながら、物語の中核にあるものは「生きることは食べること/食べることは生きること」だった。ライオスが振り返ったように彼らが全滅しかけたのは空腹であったからで、また中盤以降活躍するカブルー一行もダンジョンに入る前に地上でこの食事がダンジョンでは食べられないと惜しむシーンがあるし、食料の残りが少なくなるとダンジョンから撤退する判断もする。センシがライオスたちと行動するようにしたのも誰かと食事をすることに意味があるとわかっていたからだろう。
 物語では仲間と食事をする場面が多く、食事を取ることと誰かと一緒に食卓を囲むことは分かちがたく、最終話に近いお祭り騒ぎのような食事風景を見ても後者から特に意味を見出していたことがわかる。生きること、そして食べることは誰かと人生をともにし、また分け合うことだったのだ。
 食事をともにすることは外からやってきた人を仲間として認識する作業とする考えもある(毒を入れていないという証明でもあっただろう)。

 ARMORED CORE 6が去年発売され、自分もストーリーを3周して全ミッションをクリアするくらいはやった(60時間弱)。AC6については登場人物の姿が見えないという制約にもかかわらず、各キャラクタに個性があり、存在しないファンアートがあふれるほどだ。
 各キャラクタの発言がすべて濃い作品で、好きなセリフを考え出すと終わらないのだが、そのなかで、3周目に1ミッションしか出ないキャラクタがいる。そのキャラクタは3周目のストーリーで暗躍する存在が「人類の新たな可能性」と呼んでいる計画に当初は賛同し協力していたがあるとき離反し、主人公と敵対することになる。
 その時そのキャラクタが主人公に言った言葉は「味気ないレーションを食い、泥水のようなフィーカをすする。うんざりするが……それこそが人間だ」(※フィーカというのはコーヒーのことだと推測されている)というものだ。
 かなりの未来を舞台としていて所属会社も大企業であるが、そこにいたとして前線に与えられているのは「味気のないレーション」らしい(比喩表現でもっとマシな可能性はある)(もっとも現地民はミールワーム(巨大な芋虫みたいなやつ)を貴重な食料源としているらしいが)。
 厭世的で「『今』を必要としている」と評価された彼は「新たな可能性」を拒絶をする。「新たな可能性」自体が人類を統合するようなかなりヤバいものであることは作中で示唆されているが、彼は食事をたとえに上げながら「味気のない」退屈極まりない日々を大事にすること、それこそが「人間の本質」であると理解している。彼は代わり映えのない日々を過ごし生きる『ため』に食べ、そしてそれを肯定している。

 こうして見ると生命活動に直結しながら、また文化的行為でもある食事に様々な意味があるのだなと思う。(雑なまとめ)

 ところで今の生活は朝にベースブレッドを食べ、昼にゆで卵かカロリーメイトを食べ、夜は簡単に調理されたものや冷凍食品やコンビニのチルド食品を食べ、あとはビタミンミネラルサプリとプロテインを飲んでいる。これは食事に気を配るだけの能力がないためで、味が全くわからないわけではない。

 うんざりするが、それこそが人間か?

(電車が最寄り駅についたのでここまで)

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