親の熟年離婚について

本来表に出して書くような話じゃないうえに、この期間に投稿する理由もない身内の恥の話と、この数年の感情をザラザラと書きました。
お目汚しとなるかもしれませんが、自分自身がこの件についての心の整理を終えるための楔として書き残したいと思います。
これを書かないとマトモに他の文章書けそうにないので。

今年の1月、父母の離婚が成立した。今はもう別にそう珍しくもないごく普通の熟年離婚の話だ。
3年の別居生活と、2年の調停、1年の裁判を経ての結末だったけれど、もっとずっと前から家族という形は壊れていたし、離婚自体は正直喜ばしいと思ってる。


幼少期から問題がある家だった訳じゃない。
何かにつけて価値観形成の礎をつくってくれていた母にはもちろん、概ね尊敬できるところが見当たらない父にも感謝はしている。
歪みは以前からあったものの、「家族」って言葉が明確に鬼門になりはじめたのは大学時代だった。
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叔父が数億の借金を拵えて蒸発した。
その波を受けた年金暮らしの祖父母は、長年暮らした家を失った。

遠方のことだったから、直接影響があった訳じゃない。
でも、小さい身体をクシャクシャと丸めて、いつも優しく笑っていた祖母が、震えながら「あいつは鬼だ。あんな奴、産まなきゃよかった」と口にしたとき「家族」って言葉は、ぼくにとっては(あくまでぼくにとっては)「最も身近な他人」って意味になった。

そんな祖父母の姿や巻き込まれた叔母の姿に母は消耗し、日に日にヒステリックになっていった。ピリピリとする空気が毎日漂うようになり、「就職する」って大義名分を得たぼくは、逃げるために実家を出た。

知的障害を抱えた妹が居て、独りで家庭を支え繋ぎ止める努力をする母の唯一の相談相手だった自分が家を出て、その先どうなっていくのか。この時点のぼくは多分、もうわかっていた。
最も身近にいた人たちを守る・助ける決断はしなかった。
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後悔はしていない。おおよそ、悪いとも思っていない。
父には父の、母には母の築いた人生の結果がこれであり、ぼくにできるのはぼくの人生を生きていくことだったから。背負おうと思ったら、きっとみんなが潰れていたというのはタダの予想にしても、そしてそれが自分に都合の良い言い訳だとしても。人は「自分が幸せになるために生きて良いはずだ」と思う。
とはいえ、どこまで行っても自分が家族を見捨てた人間だっていう、冷淡さは突きつけられる。仕方ないと割り切ってはいるけれど。

家族を大事にできる人を見ると、スゴいなぁと思うし少しだけ妬ましくもある。
「自分にできる限りは誰かのために」ってのは多分、誰かを大事にできなかった裏返しの部分もある。
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数年後、父が躁病を患った際、母が積み重ねた無理が限界に達した。
何年かの家庭内別居の後、母から「心身衰弱して父と言葉を交わすことが物理的に難しい」と相談を受けた。

母に別居/離婚を勧め、父に母が出ていく旨を伝えたのは、ぼくだった。

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「母さんが、離れて暮らしたいって。」

しばらく会わないうちに父は髪の半分が白くなり、そのぶん黒ずんで見える肌には一緒に暮らしていた頃よりずっと多くの皺が刻まれていた。

本題を切り出すまでの小一時間、たどたどしい会話の媒介になってくれた(ぼくにとっては全く興味を持てない)父の趣味の山歩きの雑誌がなければ、そこに視線を落とさなければ、おそらく切り出せなかったと思う。

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ぼくは父のことが嫌いだった。
べつに暴力や暴言を受けたわけじゃない。
でも。独りよがりで他人を思い遣らず、小さなアパートの一室で王様のように振る舞う父が。
そしてそんな「自分こそが最も思慮に富んでおり・正しく・間違っている可能性など考慮しようともしない」父のことが、小学校の頃からずっと嫌いだった。

母には「自分を大切にしない横暴な人間に、これからまだ何年あるかも分からない人生を託す必要はない。」と言った。
それでも「他人になれない」のは苦しかった。

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数分の沈黙の後、父が口を開く。
『一回離れちゃったら、もうお終いだと父さんは思う』
そう。その感覚は正しい。が。

『なんで、おれがこんな目に合わなきゃいけないんだ』と、溢す。

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〈〈だから、あんたは駄目なんだ〉〉
そう口にしたかった。
父が発する言葉はひとつも相手を向いていない。自分ばっかりだった。

父はこれから先、大切だと思っていた人に(主観的には)裏切られ、空いた穴を見ぬ振りしながら過ごしていくんだろう。

「家族」は当たり前の、与えられた関係性じゃない。そこにいる人達の努力によって成立している。一番身近な他人としていてくれる、目の前の人を大切にしてこなかったツケは払わなくちゃいけない。

だとしても、哀れなことに変わりはない。


『30年、一緒に暮らしてきて、そんなことで…。』
『せっかくこれからは◯◯(母)とゆっくり過ごせると思っていたのに』


父の言う通り、30年という年月は短くはない。
決定的な何かがあった訳でもない。けれど分かれ道は、多分もっとずっと前にあった。

その年月、あまりにも父は母とは別のものを見て、あるいは何一つ見ようとせず生きてきて、歩み寄りようがないところまで、来てしまった。


これからは共に過ごす時間が延びる分、母は消耗していく。だから離れるしかない。


でも、こんなにどうしようもない父なのに。それでも哀しかった。

「家族」という枠・関係性がなければ、そっと離れればいいだけのこと。
関係ないものとして、なかったものとして見ればいいだけのことなのに…。


そうは言っても。哀れみの気持ちはあれど。
もう一度家族としての絆を結び直すつもりはない。
「だれかの力になりたい」その「だれか」に「実家」は、たぶんもう殆ど含まれていないから。

割り切れなさは残るけど。
何かをつかむ、ということは何かを手放すこと。
苦しさしか生まない選択だったとしても、それを「良かった」と信じて、ぼくはぼくにできることを積み重ねていきたいと思う。
自分にとって、大事だと感じられるものを大事にしていきたいと思う。

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母から預かった荷物の中に、両親の結婚当初の手記を見つけた。
その中では父が「誰よりも大切な人」だと綴られていた。


どれだけ輝いた瞬間も、苦しいからこそ大事だったあの時間も、時の積み重ねにより、色褪せたり価値を変えていったりするんだろう。
家族に限らず人の関係性は、誰かしらの努力によってしかその大事さは維持できない。


けど、「輝いていた」「大事だった」その事実までは変わらない。
その時その瞬間、大切だった気持ちまで消えるわけではない。

いつか、その人の中からは消え去ってしまうのだとしても、
その瞬間大事だという気持ちそのものは、大事に思っていて良いんだと。
そう思っていたい。

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